特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座

誌上講座605 演武と奉納

奉納は神様に技を捧げることです。
人に見せるための演技とは
全く異質なものです。

奉納は神に対し真髄を納めるため、
派手さも無く、
分かりやすく演出する工夫もいらないのです。

武道の技は真面目に行うと素人にはまったく
理解の出来ないものとなります。

例えば、技は高度になるにつれて、動きが凝縮し
簡略化されます。よって派手な動きなど消えてしまい、
極端に言えば、ほんにお互いが対峙し合うだけで
終わってしまうのです。

思念の世界でのやりとりで技を処理してしまう、
これが名人たちのもつ超越的技術なのです。

以下の「三つのレベル」についてのお話は
和良久の皆様はすでにご承知だと思いますが、
もう一度例にとらせていただきます。

「戦って勝つ」つまり体的行動をおこして
自分にとって良い結果をつくるのが最初の段階です。
単に喧嘩に強い、というレベルです。

次に「戦わないで勝つ」という行動をおこさないで
良い結果を引き出す段階に移ります。
ここまでくれば中々のレベルでしょう。

しかし、どっちにしろ勝負というものが
基本となっています。勝負が最優先される・・・
これは獣のレベルといっていいでしょう。

日本武道は、戦いを制する術ではありません。
大事なことは、勝った負けたという概念が
存在しないレベルに至ることであり、
一致和合に導く技をもつことです。

最後には、勝ち負けを超越した思考に変わり
結果も自分にとってではなく、この世界にとって、
公共にとって良きことを招来させる技をもつのが
最良のものである、と言うことにたどり着きます。

見えない隠れた技こそ、隠り身なる神は
それを受けとられます。

演武は、武の技を演ずるということで、
人に技をご披露し紹介するためのものです。

演武は武道と言うものを理解をしてもらうため、
宣伝のために行うことがほとんどですので、
「本物をそのまま出す」では、
素人にはまったく何をしているのか意味不明です。

そこで演出が必要になってきます。

つまり、見えない透明のものではなく、
色をつけて誰にでも見える状態(分かりやすい状態)
にするのが、演武と言ったものと考えていいでしょう。

そういったことなので演武は、
人に分かりやすくを旨といたしますので、
やはりそれなりに難しい面があります。

本物を一般化し大衆化してしまうことは大変な作業です。

例えば、大学生が幼稚園児に何かを教えるような、
そんな感じです。
小さな子供に分かりやすくものを教えるのは
大変なエネルギーを要します。

しかし、これはよい勉強になります。

幼ない子どもたちにも分かるように話せるというのは、
これは中々のレベルです。

このように演武は人に伝える工夫を要します。

「和光同塵」という言葉がありますが、
光を和らげ、塵にまじわる・・・
まさにこの精神が演武といえましょう。

分からない方には分かるように親切に対応し、
徐々に深い世界へ導いてあげるのが
礼儀だと心得ます。

これは、一般に普及させる際に
必要なことだと思います。

しかし、奉納は工夫を加えないで、
祈りとともに魂の奥底から沸き起こる
純粋な部分を納めることが必要です。

演武と奉納・・・この対照的な行事は、
稽古を重ねる上でどちらも大切なものです。

何もたさず、何もひかない。
永遠に変わらないものにこそ本当の価値があります。
本物を形を変えずに後世に残す。
日本伝統文化を継承する者の努めでしょう。

しかし、そういって排他的になってはなりません。
懐を大きく持ち、門を開け放つ度量も必要です。

奉納は、本物を残し、後世に技を残していく
ための行事でありますが、
演武は門戸を広げるための行事と言っていいでしょう。

軸と円周のようなものだと思います。

演武と奉納・・・
機会があれば是非やってみていただきたいと
思います。

私は、演武と奉納を重ねる度に
大きな力をいただく感覚を強く覚えます。

奉納をさせていただく度に
猛烈な魂の引き上げから、
入れ替えの現象というのを感じます。

うまく言えませんが、すべてを尽くして神様に
納め、出し尽くして中を空っぽにしたら、
そこに新たな魂の入れ替えがあるような
気がします。

皆様にもお勧めします。
奉納も演武も機会があれば
どんどん行うべきだと思います。

きっと神様に大きなプレゼントをいただけること
でしょう。