特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座

誌上講座623「和力」

和良久の免状には、書状の枠に四神を配し、
稽古人の皆様の水火が護られ、
益々水火盛んにご活躍されますことを
願ってお渡しさせていただいています。

四神は方角に配される守護神で、北に玄武(緑)、
南に朱雀(赤)、東に青龍(青)、西に白虎(白)が
護っており、京の都もこの四神を配して
結界を張っていると言われています。

さて、結果については
以前にもここで申し上げたことがあります。

例えば、眼に見えるこの世界でも家、城などに
塀や柵や堀などをめぐらして周囲を囲い、
強盗や泥棒などの外敵が侵入して来ないようにします。

同様に、結界は、災害、事件などを引き寄せる
眼に見えない異界の魔物たちが侵入しないよう、
自己防衛のために引かれた見えない
霊線、霊壁と思って下さい。

主に聖域と呼ばれる、祭祀を行う神聖な場所の
周囲に枠を設けるのに用いられています。

結界は無益な争いを回避させるために張ります。

決して攻めず、決して攻められず・・・です。

これは個人レベルはもちろん、
社会や国家そのものにも用います。

古来の聖たちは、その結界を張る技をもって、
この麗しき日本の国を魔の手から守ってきたのです。

あの神風を吹かせたのも結界の作用です。
人を傷つけず、人に傷つけられずの
和の精神を守るためです。

結界を張る方法は様々あります。

鳥居、注連縄、また塩を撒いたり、聖水を撒いたり、
砂を盛ったり、石で囲ったりなどして、
様々な結界を張り、それに言霊を併用して
より堅固に守るべきものを守っています。

これは他を犯さず、また他に犯されない境域を
設けることにもなります。

繰り返しになりますが、和良久流に言えば
「人を傷つけず、人に傷つけられず、
人も良く、われもよし」を達成するために
欠くべからざる聖域の空間造りと言えます。

それは「和の力」を行使するためには無くてはならない
バリアーのようなものなのです。

さて、ここで思い出してください。
以前に書きましたことを。

和良久の目指す「三つのレベル」を
覚えておいででしょうか?

一つ目は、勝負において戦って勝つ・・・と言うレベル。
破壊的力で相手を消し去る「覇の力」の世界です。

二つ目は、勝負において戦わないで勝つ・・・と言うレベル。
知恵を用い無血で相手を従わせる「王の力」の世界です。

三つ目は、勝負そのものに縁の無い・・・と言うレベル。
譲り合いでともに生きる「和の力」の世界です。

人は、以上の三つのうちの
どれかの世界に生きて活動しています。

ほとんどが一つ目か、二つ目かでしょう。

ビジネスの世界、スポーツの世界をはじめ
政治、経済、はては宗教界までも。

一つ目も、二つ目もいずれにしても
「勝負」が原点です。

誰が勝った、負けたか、なのです。

さて、あなたは格闘技に、スポーツに
熱中しておられませんか?
マネーゲームに興味をもっていませんか?

体力、権力、金力に物言わせて
組織を拡大していく手法は
和の国のやり方ではありません。

野球、サッカー、オリンピックなど、
どれも知らず知らずに日本の和の結界を崩し、
覇の力をまくばらす類のものです。

どちらが勝った、負けた・・・にこだわらせ、
やはり知らず知らずに弱肉強食の精神を
植えつけています。

さて、言わずもがな、わが日本の国は、
この三つ目の「勝負そのものに縁のないレベル」
である「和の力」をもって進む国です。

それが出来る唯一の国であります。
大和の国と言われる由縁です。

この「和の力」を蔵するために志ある者たちは
日夜稽古に励んでいます。

和の力とは、決して非力ではありません。
また、妙な平和主義でもありません。

和の力は、水火の法則に従った歴然と存在する
偉大なる宇宙の力です。

火(霊)と水(体)の祭り合わせ、
と言ったほうが分かりやすいでしょうか。

一言で言えば「陰陽合体をなす結びの力」なのです。

それは、悪事を黙って静観し、されるがままに
されているガンジーのようなものでもありません。

逆に平和運動を起こして、言葉うるさく
戦争反対を唱える集団のようでもありません。

誰をも威嚇することなく、驚かすことなく、
お互いがお互いをいたわりあうよう仕向ける
まことに愛と忍耐を必要とするものです。

それには、それに耐えうる絶対的スタミナと
双方を理解する包容力、そして何事でも
対応できる絶対的実力が必要なのです。

決して力が無い、非力な者が集まって行うのが
和の力ではありません。

逆に、鍛えに鍛えた体力と精神力の持ち主らにこそ
行使出来るのが和の力なのです。

和の力は、相手に与えられるのではなく、
自分のもつ心や物を出来る限り
人に与えるものです。

与えることにより相手を幸せな気持ちにさせ、
自分もより幸せな気持ちになります。

その力の根源は「絶対神」からくる積極的、進展的な
大いなるパワーを信じればこそ生まれるものです。

それは、非の打ち所の無い精神の大きさと涵養さ、
細かさ、また無駄の無い確かな身の振る舞いから
生まれる「鍛えられた技」なのです。

そして、鍛えられた技によって、
相対する者総てが我知らず威儀を正して、

充分な尊敬と畏敬の念を持つに値する
存在であることが必要となります。

これは「稽古~言霊の水火の学び」を
することによって育まれる力でもあります。

要は、徹底的に自己の霊的、
体的な能力を高めることによって
育まれたエネルギーが産み出す一種の光、
これが和の力です。

この和の光は螺旋状に放射し、汚濁した気を吹き払い、
清らかな良いものをのみ残す力を有しています。

和の力を、別に融合力、親和力などとも言い、
一言で「ツルギ」(霊体融合し、水火釣り合わせられた
儀である)とも言います。

この力をもつ者がいれば、なにをせずとも
和の力によって場が和められ、譲り合い、助け合い、
与え合うという思いやりに満ちた
積極性ある空間が生まれます。

かって日本で修行を積んだキリストは
自国に帰って言いました。
「われはこの世にツルギを投げ込みに来た」と。

しかし、こういった和の力の逆の力、
つまり覇の力をもつ者がいれば、
何するでもなく場に勝負的観念が湧き、
すべての者は攻撃的になり、奪い合い、
傷つけあいと言う、修羅の世界が現出いたします。

私たち日本人は、この日本特有の力である
和の力を復活させ、世界各所に和の力の持ち主を
配置することが急務といえましょう。

そのためには神代にまで心を遡らせ、
たゆまない鍛錬を積み上げることしかありません。

さて、武力は、一般に攻撃的軍事力と
思われています。

武のもつイメージが壊れたのも、
武の活用が誤って使われたことに起因いたします。

機関銃をもつ者を武人とは言いません。
むやみに人殺しをなす者を武人とはいいません。

本来、創造の力であった「天の沼矛」こそ
武の始まりであったにも関わらず、
それが破壊の力に用いられてしまったがゆえに、
「武は悪」であるとのレッテルが張られてしまったのです。

武こそ、根源なる力の象徴であるべきはずなのに
現代では影に追いやられてしまい、
それがこの日本でさえ、本当の武の力について
考えを改めようとはしないのは悲しいことです。

ことに日本神道をいただく宗教界でさえ、
これに気付く者は少ないのはまことに残念であり、
悲しいことです。

「武は破壊である、悪である」

ルーツを調べることも無く、また自ら体験することもなく
一般論に惑わされて、そう信じている指導者もいます。

「武は破壊をもたらすから無くさねばならない。
武力のおかげでこの世は暗闇になった」
と言う思いは、神話で言えばこうです。

「スサノオの神は悪神であるからいなくなればよい。
スサノオのおかげでこの世は暗闇になった」と。

果たしてそうでしょうか。

影からこの世を守ってきたのは一体誰なのか。
この日本の国は何で出来た国なのか。

それをもう一度知るべきだと思います。

武の道を知り、それを鍛錬することは、
スサノオの生涯そのものを追体験することになり、
すなわち本当の日本の国というものを知る
きっかけになろうと存じます。

本当の武力とは、その字の如く
「矛をとどむるの力」であります。

ですからいまこそ本物の武の力を知り、
学び、活用することが必要なのです。

それが破壊的武力の撤廃を考える
きっかけにもなりましょう。

戦いが起こらない空間造り、天災、人災が
発生しない空間づくり。

結界を張れるのは、こういった本来の
武の力をもつものたちです。

それが宗教を支え、政治、経済を支えてきたのです。

これは太古の昔からそうなのです。
そういった影の役に携わるのは役割だからとしか
言いようがありません。

正しい神の武をもって世を支える。
それは密かに影で行われる、陽の当たらない御用です。

武に携わる者たちはここのところを覚悟しないと
「なんでわれわれはいつも虐げられているのだ」と
やけをおこしがちになります。

それで陽の目を見ようと欲心を起こし、
失敗してきた武道家を私は沢山知っています。

目立とう、表に出よう・・・と。
それでは本当の和の力をもたらす資格などありません。

最初から分かっていることですから
辛抱できないならやめることです。

武は影であり、月なのです。

これを肝に銘ずることです。

しかし、誰にも褒められず、優遇されず・・・ではありますが、
これほどやりがいのある道はまたとないのではと
武に携わるものの一人として密かに誇りに思っています。

なぜなら人は誤解しますが、神様は誤解されません。

神と直結できること。
これほど心強いことはありません。

またこのような世界に誘ってくださった神様に
いまの自分の幸せを心から感謝せずにはおれません。