特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座

誌上講座624「時・所・位」

物事をなすにはすべて
時があり、所があり、位がある。

歌が上手で好きだと言っても、
皆が寝静まる夜中に
大声で歌うと言うのはどうか。

また、いくらスポーツが好きだからと言っても、
場所を選ばず、皆がくつろぐ小さな公園で
サッカーをして場所を独占すると言うのはどうか。

人を好きだからと言って、
時と所をかまわずに追い回すのはどうか。

海岸でみんなが楽しく泳いでいるのに、
合宿だからと言って、そこでこれ見よがしに、
武道着姿で整列し、大声出して、
殺伐とした技を見せ付けるのはどうか。

稽古をするにも
時があり、所があり、位がある。

例えば、自分のなすべき仕事を中途で放っておいて、
その分他の人々にしわ寄せがくるのは知れているのに。

稽古を行うとき、その稽古を行う時間は
他に迷惑をかけない時間帯か、

その場所で動き、声を出すのに
他に迷惑をかけない場所か、

そこで稽古を行うのに、
他に対し了解を得ているのか。

そこの建物の人たちや、
それに関わる人たちに違和感を持たせて、
嫌な思いをさせてはいないか。

もし、その建物が、公共のものであったりしたら、
なおさら気をつけなければならない。

お金を払って使用許可を得て使っているんだからとか、
自分たちのやっていることは
世界の平和につながることなんだ、と言う
手前勝手な考え方は和の道ではない。

公共の施設で稽古をする時、周りの理解があれば
通常の方法と順序で稽古を行えばよいが、

そうでなければ、
やはり地域みんなの建物なのであるから、
環境や、その建物に出入りする人たちのことを
考慮してなければならない。

神様を拝むのにも時があり、所があり、位がある。

神様は尊いからとて、
所かまわずお経や祝詞を唱えるのはどうか。

そこは、どういう場所なのか。
正式な礼拝をするにふさわしい場所なのか。

もし、そうでなければ、黙礼するなど、
そこにふさわしい方法で礼拝すればよい。

また、正式な礼拝するにふさわしい時間なのか。
もし隣や向かいの部屋で、多くの人たちが仕事をし、
何かの勉強にいそしんでいるならば、
そこにふさわしい方法で静かに拝めばよい。

礼拝をなす心構えが出来ているのか。
先達する者、または集まる者の心が一致していない
のに礼拝するのはどうか。

本当に礼拝をするならばご神前に行くことだ。
本当に稽古をするなら道場に行くことだ。

そうでない場所なら、やはりそこの場に合わせることだ。
時と場と位を考えてこそ人は人でありえる。

しかし、このように時、所、位を考えて人と調和し、
理解し合えたなら、このままに捨てておかず、
次へのステップに進むようにしなければならない。

正しいことの強要は人に不快感を覚え、敬遠される。

正しいことを行うのに時があり、所があり、位がある。

調和をもって自然に導くのが良い。

何が正しい、正しくないの基準は難しいが、
ひとつの基準として調和が取れているか否かがある。

ここに言霊は、ひとつの方程式を与えてくれる。

「スウアオエイ」

稽古人ならおなじみの発声音であり、
宇宙創生の音声と言われるものである。

まず、心を落ち着けて祈り(ス)、次に決断し調和し(ウ)、
そして善導す(アオエイ)。

何事もこの音声の順により行えば
誤りはないように思う。

「ス」を基準とし、ここから始まる
思想、行動、言語は清らかだ。

何をなすにも調和が大事である。
調和は、音楽の旋律のようなもの。

調和を乱すとは、
周りが「ドレミ・・・」と鳴っているのに
「ミレド」と音階を違えるようなものである。

調和は言霊である。

言霊は、即ち宇宙の調和である。

我々日本人は言霊を伝承する民である。

言霊を伝承する民は、この調和をいつも考えて、
語り、思い、行動しなければならない。

言霊は水と火の結びの技である。
これにより宇宙の秩序を保っている。

言霊の父音「アオウエイ」は、「天地結水火」と
言う意味であることを知らねばならない。

天と地を結び縦軸を形成し、
火と水を結び横軸を形成する。

右と左を結び、上と下を結び、前と後ろを結ぶ。

そして、すべて相対する存在を複雑に結び合わせ
まるで毛糸の手毬のような球体を形造る
「かむわざ」をなすのである。

この結びによって万物は産み出される。
結びは「生」であり「産」であり創造の力である。

言霊・・・それはこの世で唯一
世界の平和融合の基となる技である。

いにしえの聖人賢者たちが、
日本の国こそが世界を和め、
まとめていく使命を帯びていると言っているのは
この言霊の本当の力を知っているからである。

言霊を学ぶことによって、
人は自然に和の力を得る。

和の力は、調和である。

和力は、進展主義、楽天主義、統一主義、
清潔主義など四大主義と言われるものを
柱とする。

●何事も与えられるより与える側になろうと言う
進展的な前向きな行動をなし、

●取り越し苦労などせず、
総てを神に任せて楽天的に考え、

●上(神)を敬い、下(人)を慈しむ、
上も下も信頼のもと一致統一し、

●不浄、不義な行いや思いをなさず、
常に身も心も清潔にする。

行いが正しく、言葉慎ましやかにして、
身にやましい事がなければ、どこからつつかれても
何も恐れることはない。いつも堂々としておれる。

しかし、何か身に覚えのあるようなことであれば
誰かに「あの事がばれたらどうしよう」とか思い、
いつも怯えていなければならない。

いつもおどおどして暮らす。
こんな情けないことはない。

何につけても
誠実と潔白であるほど強いものはない。

心も体も澄み切っていれば、
それは水の綺麗な川底に光が差し込むようなものだ。

心も体も濁っていれば、
それは汚染した川のようなもので、光を通さない。

光が差し込むと、知らぬ間に威厳が備わる。
一種の神的エネルギーが発揚する。

そんな時、人は畏敬の念をもって接してくる。
「この人は我々と違うんだ」と感じる。

例えば、聖地にある雰囲気のように、神々しく感じ、
一歩も二歩も引いてしまうような存在となる。

これこそが和力の現れであり、言霊の妙用である。