特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座

誌上講座633「修行(3)」

稽古事において、
堅苦しい型を、来る日も来る日も、
何度も何度も同じ動作と言葉を
繰り返して技を練る。

まったく根気のいることだ。

何のためか
(・・・ああ、こんなことを、
また話さねばならぬとは情けない)

型にはまることは、
自分を決して萎縮させることではなく、
まず前後上下左右の枠を設けて、
自分の行動範囲を規定して、
その範囲の中で置いて、
最大級の身体操作の方法を学ぶのである。

人は、行動を規定し、束縛した時から、
その枠内で力を蓄えることを行うと同時に、
その枠から出ようとする本能が働く。

つまり、枠を設けることは「秩序」が生まれ、
それに沿って綺麗に無駄のない行動が行われ、
またその秩序を基準に
広く大きく思いが広がってくるのだ。

型は「家」造りである。
自分の家があると、安定する。

時に家を離れて旅に出、
また疲れたら帰ってきて休む。
そういった故郷を持つことが型とも言える。

そして、その家には祖父、祖母がおり、
両親がおり、兄弟姉妹がいる。

このように人が集まって生活をしていくには、
人として最低限のルールを守ることが必要となる。

朝起きて布団をあげ、洗面をし、
食事をして家計を助け、
またおのおのに夢を果たすために働きに出る、
あるいは学校に行く。

時には、皆が病気などせぬよう衛生に保つため、
家の中を清潔に掃除する。

お互いが楽しく暮らすため
「おはよう!」「ただいま!」
などと、声を掛け合うことも大事だ。

そして、近所とのコミュニケーションも欠かせない。
気持ちのよい環境あっての、我が家であるのだから。

話は長くなったが、このように型の稽古は、
家を建て(身体を強く丈夫にし)、
家族が住み(心がこもり)、楽しく生活
(お互いに礼を尽くして楽しく暮らす)
していくことに通ずる。

やがて、子供も成長して、親に意見を言うようになる。

親も、煙たいながらも、自分に対し偉そうに
意見を言うようになった
わが子の成長振りに眼を細める。
嬉しいのだ。

そして、子らも一人立ちして家を出る日が来る。
お世話になった両親をはじめ、祖父祖母も、寂しい
ながらも、里心を起こさぬようにわざと冷たく突き放す。

型稽古に始まり、応用の技を身に着け、
どのような相手であっても、
どのような攻めがわが身を襲おうとも、
自由な心でさばくことが可能となる。

その自由に見える動きは、
実はすべて基本の型からの動きから
一歩も出ないものであることを知る。

伝書に有る・・・

「習いの長を尽くして習いを忘れ、
習いを離れて習いに違わず。

言うこと行うこと、皆道理に適って理に通ず。
その域に至れば、天魔外道もわが心を伺い
得ざるなり」

・・・稽古を限界点に達するまで
充分に積んでいくと、
いつしか身体のすみずみに技がしみこみ、

技を使おうと意識せなくとも、
無意識に身体が動くようになる。

やがて、極意に至れば、
まったくの自然体となって、
話すことも動くことなども、
稽古以外の中においても、
人生のすべてのこと全般にわたって
何事もうまくいきだすものだ。

そうなれば、人間関係のみならず、
災難や事件に巻き込まれることもなく、
心安く毎日を送ることが出来る、
と言う意味である。

まず徹底的に自分を型にはめ込むこと。

特に、入門後何も分からないうちは
場の空気とその流儀の雰囲気をつかみ、
また指導者と稽古人たちの水火(ここでは気持ち)
の流れを感じとるまで
沈黙の時を保つ辛抱が必要である。

それは滝の流れ落ちるのを体で
受け止めるときの感覚にも似たものだ。

滝に入ると、最初はその流れの強さに辟易し、
また痛くて、冷たくてすぐ逃げたくなるが、
しばらく辛抱していると、
水の落下のタイミングや力を体で覚えて行く。

そうすると、無駄な力が抜けて、強い水流にも、
水の冷たさにも慣れて
平気で滝の中に居ることが出来るようになる。

これは理論ではない、
実践でこそ身につく感覚だ。

頭でなく体で覚える。
その感覚をつかむ。
感覚から現れる雰囲気をもって
技とするのだ。

技の順序を覚えたとて使いものにはならない。
感性を磨くこと。

いつ動き、いつ使う・・・は感性である。

感性をつかむのには、
やはり物事を肌感覚でとらえるという
受動的な受け入れ体勢が必要であろう。

そういうことに我慢が出来ず、
またそういうことをやる理由を
見出せないでいる理論派は、
日本の稽古事というもの、
その伝達形態というものが
不合理極まりなく思え、
理解できないであろう。

日本の神技的な技術を身に着けた達人たちは、
例外なくある一定期間、
無条件で師の教えを受け入れ、
すべて体の隅々にま浸透させ、
その上で、たゆまない鍛錬と信仰心によって
永遠に変わらない技を見につけた。

「なんでそんなことやるの?
その理由を教えて。
その理由に納得したら稽古をします」

「なんでそんなことを言うの?
いまの私には理解できない。
私にも理解できるよう分かりやすく説明して。
理解したら従います」

なんで?なんで?と
やる前から聞きたがる輩に
稽古の道など理解できない。

議論好きには日本という国が理解できない。

「なんで?と分からないから稽古をするんだ。
その答えを出すために、いま黙しているんだ。

いちいち四の五の抜かすんじゃない。
体で覚えろってんだ。
わかったか、このバカやろう」

と言われたらあなたは腹を立てるだろうか。

もし立腹したのなら、
この世界はあきらめなさい
と言うほかない。
きっとこの先、続かないであろう。

話して分かるなら稽古はしなくてもいい。
稽古を通してこそはじめて
一つのことを理解できるのだ。

入って間もないときは、
何もかもわからないものだ。
いちいち先生や先輩たちの言うことに
「なんで、なんで」
などと疑いをもつようなことでは
稽古が先に進めない。

今の日本、
「うるさい、黙っておとなしく稽古をせんか、
そのうち分かる」

・・・などと言い、叩こうものなら、
現代人は目くじらをたてて
きっとこう反論するだろう。

「そんな暴言を吐くなんて、
なんて横暴で分からず屋なんだ。
そんなことで和合の技が聞いて呆れるわ」

「そんなことで叩くなんてひどい」

それが技を継承にともなう忍耐なんだよ、
と言っても
「時代遅れで封建的だ」
と抗議されるだろう。

なんにせよ、技を学ぶということは、
テクニックを身に着けることとは違うのだ。

先生たちのもつ雰囲気を受け取り、継承し、
進化させていくことではないかと私は思う。

また、和の道を守るということは、
決して自由に意見を言い合い、
思い思いに行動をするということではない。

信仰によって敷かれた秩序に従うということだ。

和良久は言霊の助けを借りて
神の絶対的秩序を学ぶ道である。

フトマニノミタマ、ミズクキモジ、
マスミノカガミ、イキノギョデン・・・など、
太古から伝わる命の法則を
素直に学ぶことが稽古ということなのだ。

そこにはむしろ
人の身勝手な自由行動は容認されない
堅苦しいとさえ言える厳格さがある。

日本の行は、
この厳格な神の構造秩序を学ぶものである。

工夫だの、研究だのをするのは、
思い上がりも甚だしいものと
言わなければならない。

皆の意見を聞いて進もう・・・とも違う。
かと言って、
決して独裁的と言うのではないのだ。

雰囲気を大切にすればものの本質を感じ取り、
また伝えることが出来る。

稽古とは正しい、正しくないを議論したり、
研究したりするものではない。

総ての軸は何か、それがどこにあるかを知り、
いかにしたらそれに忠実に
従うことが出来るかかを学び、

総てが流れよく、円満に、そして
永遠に動き続けることが出来るかを
身をもって知ることであろう。

私たちは、その総てが整う法則を見出し、
残してくれた先人たちの意思を
しっかり受け継ぎ、

現代に、どれだけその技を
忠実に再現していくか、だけである。