特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座

誌上講座649「月と武道」

昼は太陽、夜は月。

日、月ともに昼夜を問わず、
天は私たちに遍く光を照らし続け、
生きる希望と多くの恩恵をお与えくださっています。

その恵みは限りなく、障壁無く、
自ら閉ざさない限り、必ず誰でも受けることが出来る
恵みなのです。

ある満月の時、となり合わせた人が言いました。

「太陽はまぶしくて見れないけど、
お月さんはゆっくりながめることができますね」

その言葉に「なるほど・・・」と
妙に関心いたしました。

昼は「がんばれ!」とばかりに
激しく放射する太陽の光を浴びて活動します。

夜は逆に「おつかれさま・・・」と、
優しくいたわる月の光を浴びて癒される・・・
そんな違いを感じます。

激しい太陽と優しい月。

いずれにせよ、どうも太陽や月は
万物を育む力を与えてくれる、
無くてなならない存在のようです。

土に種を植え、水をやる。
あとは、月と日の光を浴びて
作物は自動的に育って行きます。

人間がどれほどの努力をしても、
この光が注がれなければ作物は育ちません。

これらの光の中に一体どれだけの力があるのでしょう。
もしかしたら、水と土に、天からの光が差し込んで
始めて生命を育む力が生まれ出るのかも知れません。

思えば不思議なものです。
光は透明なので見えませんが、
しかし、その中にきっと様々な
生物に必要なエネルギーが入っているのでしょう。

そう言えば昔、畑に出たお婆さんが、
おてんとさん(太陽)に手を合わせ
拝んでいる姿をよく眺めたものでした。

また、夜は月を仰いで、これから起こることを予測し、
それが意外とよく当っているので驚いたものでした。

お婆さんやお爺さんは
太陽や月と話が出来るのかなと、
子供心に思ったものでした。

月は海の干潮、満潮を起こし、
お産に関係し、人の生死まで予測できます。

月の光は、火のような太陽の光と違って
あくまで優しく、しっとりとして瑞々しさがあります。

太陽は火を、月は水を司どると言うのも
なんとなく分かる気がしませんか。

太陽は火を主体とするゆえ
「火火水(かがみ)」~鏡、
月は水を主体とするゆえ
「水水火(つるぎ)」~剱を指します。

神道ではよく御神体に鏡を用いますが、
太陽の神アマテラスを指す意味もあるようです。

わが国では昼の世界を守る太陽は
「アマテラスオオミカミ」、
夜の世界を守る月は
「スサノオノミコト」に例えられます。

スサノオノミコトは剱の神様、
つまり武道の神様ですが、
ミコトの生涯を見ますと、
武道の稽古人としてのあり方を
はっきりと伺い知ることができます。

ミコトは剱の化身と言うだけでなく、
万民の罪をその身一人で背負うと言う
誠実かつ犠牲的な精神力と、
その万民の罪を代わりになって贖うと言う、
まことに強靭な肉体の持ち主であると
言うことです。

また、その活動は決して、日の当る場所で行われず、
派手な舞台も演出も設けられず、とっても地味なのです。

誤解を受けることをも、もろともせず、ひたすら忍耐し、
人知れず、陰でこつこつと実行していくような者が
スサノオに学ぶ武道家の姿です。

誰にも褒められず、
また誰にも拍手喝采を受けない孤独さに
辛抱できること。

それが出来るということは、
心のうちに権力志向やわがままの気持ちが無く、
利他的であり無垢な心の持ち主と言う
証ではないでしょうか。

また、こういったことが
本当のツルギの意義ではないかと思います。

出口聖師は
「瑞の御魂(スサノオ)は月の神である」
と言われています。

また、大本開祖は、その筆先に、
「撞(つき)の大神様は、地の世界では足定満(だるま)様の
霊魂(みたま)の性来である」と記されいます。

そして「此の足定満様の誠の心に成りたなれば、
世界の事は何事に依らず、思うように、
箱さしたように行き出すぞよ」
と続けられています。

すると、月~スサノオノミコト~ダルマ・・・
こういったつながりが浮かび上がってきます。

このつながりを思う時、今の自分への転機となったのが、
南禅寺の達磨堂という、
達磨大師を祭ったお寺での修練があってこそであることを
いまさらながら不思議に思います。

そういえば私は
ダルマ様の導きを受けて大本に来ました。
そして、そこでスサノオノミコトの教えと
武道に出会いました。
仏教から神道への移行でもありました。

そして「月宮宝座」と言う
月の大神様を御神体と仰ぐ鳳雛舘という道場で
一心に稽古を積んだところ、
和良久が誕生したのでした。

本当に、古来から武道家にとって
月は心の支えであり、
神様そのものでありました。

先人たちは、夜、月の明かりを頼りに
剱の稽古に励みました。

そして円月、月影・・・
など技の名称に月の字を入れたり、
あの柳生十兵衛などは、
「月の抄」と言う伝書を著したりしました。

月は、常にその表面を向けて地球の周りを回ります。
そして、地球の水気をほどよい状態に
コントロールしています。

相手と言う水(身、体)をコントロールする技・・・。
これこそ武道そのものと言えます。

水(体)は呼吸によって活動を起こします。
つまり、月は地球の呼吸を
司っているということです。

大地の吸う息、吐く息は月の自転、公転がそれを行い、
それで大地の植物をはじめ、
すべての生物は生かされています。

月と地球の微妙な運行・・・つまり、
その互いの螺旋運動による息の交わりによって
命を育んでいるのです。

月は「着き」「撞き」であり、
また「突き」と解釈できます。

まるで武道の技のように、
相手や物との間を適切に保ちつつ光を放つ・・・。

例えば餅つきのように
タイミングを見計らってついたり、
引いて出るような寺の鐘をつく
動作であったりします。

「ツク」と言う言霊は、すべて
「ウ」と言う言霊に帰ります。
ウは、凝縮力、集中力の言霊であり、
間を図る言霊で、
人と人、物と物との距離を保つの意義です。

技で言えば、まさに突きなのです。

「憑き」の意義となると、
人格の変化や憑霊現象なども
月の影響をともなうものも多いようです。

満月に犯罪が多いと言われます。
例えばジキル博士とハイド氏や、
狼男の話のようにです。

水気の膨張により、
興奮状態になりやすいのかも知れません。

気の弱い人はそれで吾を忘れて暴走してしまい、
逆に気の強い人は吾に帰って
和めるのかもしれません。

また、太陽は光を強く放射するので、
呼吸で言えば吐く息で「入り身」です。
それに比べ月は吸う息で「受身」です。

だからでしょうか、
受身である月は、もしかしたら
私たちの言うことを聞いてくれるのかも
知れないと思うのでしょう。
時に人は月に向かって夢を語ったり、
志を述べたりします。

山中鹿之介などは、月に向かって
「われに七難八苦を与えたまえ」と
毎夜語り続けたと言います。
気の強い武将です。

なんにせよ、私は武道と言うのは、
もしかしたら月のもつ力を
表現したものなのではないかと思うのです。

夜、稽古を終えて自宅に戻る時いつも空を仰ぎます。
そこに星のまたたきと月の明かりを見ると
なぜかほっといたします。

その日いろんなことがあっても、
たとえどんなに草臥れても、
夜空に静かに光を放つ星や月を見ると、
ああ頑張らねばと励まされるのです。

若い頃は太陽が好きで、
月に見向きもしませんでしたが、
いまはお月さんがとっても好きです。