特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座

誌上講座677「箒そして剱」

今日から久しぶりに、誰彼に気兼ねすることなく
鳳雛舘と二人っきりで過ごすことが出来る。

今日は私の稽古日なのだ。

まるで、久しぶりにお袋と水入らずで過ごしたような気分だ。

夜7時、ガラガラ・・・と鳳雛舘の戸を開ける。

電気がすでについていた。
亀岡の稽古人の一人が間違って来ていた。

メールの確認を長いことしていない・・・とのことだった。

申し訳なきことながら帰っていただく。

まず、清掃。

稽古は掃除から始まる。

稽古が終わって掃除をするのは間違いだ。

和良久以前の私たち鳳雛舘の稽古人は、
剱を持つ前に箒をもった。

稽古時間が始まるずっと前に鳳雛舘に入り、
着替える前に道場全部を掃き清める。

新参者は先生や先輩が来られるまでに掃除を終わらせる。

しかし、誰が彼がではない。

早く来た者がまず箒をもって掃き掃除を始めるのだ。

私たちは奥山先生が来られる前に掃除を済ませるよう努めた。

私たちが遅れると、先生は一人でも掃除をなさっていた。

稽古の前にまず掃除だ。

箒さばきも出来ないで、剱さばきなどおこがましい。

「私は掃除をしにきたのではない、稽古をしにきたのだ」
と随分以前にそんなことを言う外人がいた。
また似たようなことを言う日本人も現れた。

和良久以前の話だが、言語道断「出て行け」と追い返した。

稽古は、心身の掃除である。

心身の掃除をする前に、稽古場の掃除、
つまり環境の美化意識がもてないで
稽古もなにもあったもんじゃない。

身の祓いを行うのに、
場の祓いが行われないで清まるはずがないではないか。

掃除は上(かみ)から下(しも)へ、
埃をたてぬよう、抑えるように箒を動かす。

畳半畳、畳半畳・・・をきっちりと計りながら
箒をさばくのだ。

ゴミがあろうがなかろうが、
たんたんと箒を上から下へ掃き進めていく。

やがて玄関へ至ると塵取りで塵をかき集める。

道場に塵ひとつ落ちてなくても、
稽古前に掃除はするのだ。

眼に見えるゴミはなくても、
眼に見えないゴミはある。

その見えないものを見るのが
稽古なのだと言うことを知らなくてはならない。

塵があるかないかは問題ではない。

大事なことは、
掃除によって稽古人の心をまず清めることなのである。

「箒で掃くのは、大麻で祓うのとおなじですわ」

奥山先生は良く言っていた。

掃除は祓いの技なのであると、
私たち鳳雛舘の稽古人は思っていた。

祭典においても、まずお祓いから祭典は始まる。

『身を清めて事に臨む』ことがわが国の風習である。

いま和良久も他の武道稽古のように、
稽古後に掃除を行っているが、これは順序が違う。

皆さんに対する私の指導が誤りであった。

いま、ここに訂正させていただく。
旧鳳雛舘流に慣わせていただく。

稽古前に掃除を済ませること。
どこの稽古場もこれをお願いしたい。

考えればこれは常識である。

家でもお客さんが来る前に掃除をしてから迎える。

誰がお客さんが帰ってからすぐ掃除をするであろうか。

稽古後、すぐ掃除をするのは、
まるで早く帰ってくれと言わんばかりである。

家で、訪問したお客さんが帰られたら、
その場でバタバタとすぐ掃除を始めるのは、
まるでお客さんが家を穢したかのようで、
お客さんに対して失礼であろう。

稽古が始まる前に稽古人は
稽古場に来て場内を清掃して清め、
しかしてのち稽古着に着替え、
心静かに稽古時間を待つ心構えがなくてはならない。

夜7時に稽古が始まるなら、
7時までに清掃を終えておくことだ。

もし、時間的に難しいのなら、
7時に掃除を始めてもよい。

稽古は以下の流れをもって行うものだ。

掃除(お祓い)~神前礼拝(祈願)~技の練磨(実践)~神前礼拝(感謝)

掃除も稽古の内なのである。習う者の礼儀なのである。

新参者が稽古時間ぎりぎりにやって来て、
すぐ稽古着に着替えて礼拝もそこそこに稽古に入るなどで、
なんで伝統ある日本武道の技を身に着けることが出来よう。

たまに遅れるのは諸事情で仕方ない。
しかし、なぜか遅れる人は決まって同じだ。

心構えが出来てないのだ。

掃除が遅れたら
「ああ、残念だ。損をした」と思えばいい。

掃除が出来たら
「ああ、嬉しい。徳をした」と思うこと。

技を覚えるだけために稽古に来るのなら、
ちょっとお門違いだ。

稽古は家を出るときから始まっている。
私でさえ稽古となるといまも緊張する。

『剱を持つ前に箒を持つ』

この鳳雛舘精神を私は残していきたいと切望する。

さて、久しぶりの母なる鳳雛舘での自分だけの稽古。

着替えをしながら緊張感が走る。

稽古においては、稽古相手が何十人何百人いても、
まったくいなくても、稽古に臨む時の心境は同じだ。

稽古に緊張感がなくなってはおしまいだ。

ロッカーから木剱を取り出し正座し、
心静かに神前礼拝。

礼拝後、雷撃電飛の額、そして、
四代様の葉隠れ居に向かっての礼。

今日の稽古は、次の如し。私にとって稽古始めだ。

八力、八剱、75声、12剱打ち込み、
75剱、布留、ますみの鏡とゆっくり、じっくり行う。

もちろん、いままでも
稽古時間外に鳳雛舘で自分の稽古を行ってきたが、
訪問者があったり、本部の者が出入りしたりして、
なかなか落ち着いて鳳雛舘で過ごせなかった。

稽古人の皆にわがままを言って私、
前田の稽古時間をもたせてもらった喜びでいっぱいだ。

思い出す。

誰も来ず、何年も一人で剱を振ったあの頃。

悩みに悩んだつらい時代。

いまは、そのことがまるで嘘のようだ。

ここも稽古人で本当に賑やかになった。

稽古の日ともなると鳳雛舘は満員御礼の状態だ。

しかし、賑やかになればなるほど、
指導の質を高めていくことが必要になる。

技にとどまらず、礼儀、節度などのモラルもだ。

75剱の稽古も本格化してきた。

対外的な付き合いも増えてきた。

こういった勢いが出てくると、
ややもすると質が見落とされがちになる。

騒がしくなればなるほど静かに己を見つめなさい・・・
と神様の教えにある。

私自身をもっと見つめたいと思った。

自分の中からもっと何かが出てきそうな気がしてならない。
私は私の中に眠る力を信じる。
皆もそうである。自分の中の本当の自分を探してほしい。

稽古を終わって、神前礼拝。

今日も稽古しただけの収穫はあった。

有難い。稽古をすれば必ず収穫はある。

私にとって道場稽古は、畑に出て農作業をするのと同じだ。
耕せば土は肥え、実りは豊かだ。

着替えを終わり、電気を消して鳳雛舘を後にする。

激しかった雷も静まり雨も上がりかけていた。