特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座126


「鎮魂の状態」


私たちが行う鎮魂の目的を具体的に申し上げますと、
一言で言えば「中心を見つける」ということです。

それは核になる部分であり、柱になる部分であり、
どこにも属さない中庸であり、真ん中の部分です。

そして最も「ニュートラル」な部分です。

それはいきなり前にもなれる部分であり、右にもなれる部分であり、
上にも、また下にもなれる部分なのです。

すぐに動ける部分であり、絶対不動の部分であります。

体内における軸であり、体外における軸であります。

つまり「ウ」の状態なのです。

飛行機がピタッと空中で見事なバランスを保って飛行している様を
思い浮かべてください。

それは前後、上下、左右のどこにも属さない、中心をもって飛んでいます。

和良久を稽古しています時、
いつもこの状態を保っていますよう技が組まれています。

中心あっての螺旋運動です。

この中心にピタッとはまった時心は爽快であり、腕や体に疲れも出ません。

「いつまでもこのままでいたいな」と思います。

しかし、中心を見つけられないままで鎮魂し、瞑目を続けていると
気持ちはイライラし、腕は疲れ、同一状態の姿勢が保てなくなります。

「早く止めたいな」と願うばかりとなります。

全身が平面的な運動から脱して、
立体的な球体運動と化した時見事な鎮魂がなされているのです。

鎮魂は手を組んで静止した状態ではなく、人が人として動いて
生活している中においてこそ活かされなければ意味はありません。

じっとして正座瞑目している場だけではなく、相手がいて、
それに合わせて動く中において平成さを維持し、
バランスのよい行動がとれるものでなければなりません。

例えば、人里を避けて山中深く篭り、
滝に打たれたりするのも修行かもしれませんが、本当の修行というものは
現実社会から逃避せず、今をしっかり見つめて目前の問題に体当たりで
対処していくことではないかと存じます。

鎮魂も、一人篭って幽玄の世界に没入することも楽しいでしょうが
喧騒の中において鎮魂が出来るよう鍛錬することが
大切なような気がします。

何にしても「利他的であり」「公の役に立つ」ものでなくては
意味がありません。

鎮魂、または瞑想の類は懲りすぎると、
暗く排他的なものになりがちです。

広く世を見渡すための鍛錬であることを忘れてはいけません。


続く・・・