特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座308


「憧れの大日本武道宣揚会」(3)


私が、22年前の空手師範時代。
この組織がまだこの世に存在していると
信じていた。
だから山陰線に飛び乗った。

途中、綾部の大本に導かれて、
そのまま修行に入ったが、この時、
初めて大日本武道宣揚会はすでに無いという
事実を知った。

その時から、私は、この
「武道宣揚会を再興したい」という
猛烈な衝動に駆られていた。

であるから、和良久という名称を
大本四代教主様に頂戴する以前、
実は新日本武道宣揚会という名の下に
組織作りの構想を練っていたこともあった。

こんなことを突然書き出したのも、
先日、台風の水害により被災を受けた
豊岡市のボランティア活動参加が起点になった。

また、今の和良久の考えと技、そして私の夢に関し、
私の出生地とも深く関連している
事柄の深いことはまことに興味深い。

私は、被災地へ行くため、
車で朝5時半に家を出た。
豊岡は、この竹田の近くの道を走る。

この時、竹田の近くである和田山を通過したとき、
ふと忘れていた大日本武道宣揚会のことを
思い出したのである。

それは、丹波亀岡に来た私の原点であった。

「神武の国、まことの武をもって
この日本を復活させてみせる」
21年前、そう誓った。

また、この和田山を通る前に、
車は福知山を経て夜久野を通る。
夜久野町額田、ここは私のふる里である。

住んだことは無いが、幼少の頃、夏休みには、
今は亡き父方の祖母や叔母を頼り、
一ヶ月間ここで過ごすのが決まりだった。

当時は、藁葺き屋根の家が立ち並ぶ
日本の原風景が残る静かな小さな村であった。

大阪に住む私は、ここへ来ると
時間がとまったように思われた。
父は、ここにはヒトダマがよく飛び、
狐と狸が化けてよく人を騙す、と言った話をよくした。

また、どこそこの池に行くと竜神が住むから気をつけろ、
あの山には神さんがいるから、めったにいくんじゃない
・・・などと注意をされた。

子供心に神秘な場所だと思い、怖い所と思っていた。
実際、いま思うと妙なことが夏休みの記憶に残る。

あれは幻だったのか、本当にあったことなのか・・・
いまはそれを検証するすべもないが、
今なお夜久野のことは夢の中によく出てくる。

夏休みに寝泊りしていた父の建てた屋敷は、
普段は空き家であった。
広い庭には、様々な植物が植えられ、
なぜか大きな岩が庭の真ん中に置いてあった。
それは化石だという。

この化石、その後にかなりの重要な化石ということで、
どこやらからの団体が欲しいと願い出てきたことがあった。

もう父も亡くなった後で、
この屋敷もほったらかしの状態である。
その権限は私にあるとのことで、
化石についても「どうするか」と問われた。

私は「お金はいらない、ただであげる」と譲った。

子供のころ、この野山を駆け、綺麗な水の川で泳いだり、
魚をとったりして遊んだ。

川の土手の上に、汽車が煙を吐いて通過するとき、
無邪気に汽車に向かって手を振っていた
少年時代が懐かしい。

そんな自然も時とともに変わってきた。

私が、中学に上がる頃には、宅地造成のため山が削られ、
川も農薬を使っているから泳いではならない、と
村の人から忠告を受けた。

また、工員を多数雇い、メリヤス工場を経営していた
実家もなぜか急にぱったりと操業を中止。

実家の二階に並んでいた編み機もほこりをかぶり、
ねずみが走り回っていた。

賑やかだった実家も貧困の風は容赦なく吹きつけ、
壁は落ち、ふすまは破れるあばら家に変わっていった。

子供の私には、隆盛を極めた工場が、
急にぱったりと閑古鳥が鳴くその事態が
さっぱり理解できなかった。

自然環境も破壊され、家も崩れ、
人も誰もいなくなった寂しい田舎に帰る理由が
子供心にも、徐々に見つからなくなっていた。

そうなれば田舎に帰っても仕方がなくなり、
以来すっかり夜久野には足が遠のいた。

せいぜい、一人で頑なに住んでいた
祖母の様子を見ついでに墓参り行く程度となった。

昨日、豊岡でのボランティア活動を終えた帰り、
もう午後6時を過ぎたころか、
この夜久野を通りかかったので、
何気なく村に向けてハンドルを切った。


続く・・・