特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座 誌上講座

誌上講座372


「場のわきまえ」


武道というイメージが、一般にまだ野蛮なせいか、
稽古の環境や稽古人自身のマナーが
どうも粗雑になりがちである。

稽古場が汚れていても、
どうせ稽古で汗や血で汚れるだろう・・・。

投げたりぶつかったりで、どうせ稽古場が痛むのだろう・・・
などと、自分たちの鍛錬する場を
まるで作業場か何かのように甘くみる向きがある。

以上は、主に既成武道の中の話であるが、
気をつけないと和良久でも人ごとではなくなる。

稽古場は、道場と言い、道つまり
魂を磨く場として存在する。

道場には、必ずご神前が祭られ、あるいはそれに変わる
清清しいものが置かれてあったりなどする。

このように道場には神聖な空間を設け、
稽古する者は先人からの慣例に倣い、礼に始まって、
礼に終わるしきたりを誰やるとなく厳修している。

道場は、作業場でも運動場でも体育館でもない。

そして、道場は新しいことにチャレンジする場ではなく、
むしろ時代を昔へ、昔へと
タイムスリップしていく場でもある。

稽古は、古(いにしえ)を思うこと・・・と
前にも申し上げた通りである。

このタイムトンネルを通ってどれだけ純朴な
元の昔に帰っていけるかである。

謂わば、稽古場である道場は、同時にわが身を
清める空間であり、神秘な力を授かる
ご神前でもあることを忘れてはならない。

時に、道場にご神前のない所もある。

そういう所は、稽古を先導する立場の者が、
稽古に先立ってその土地の産土の神様に向かって、
たとえそこに神棚が無くても、想念をもって礼拝し、
ここで稽古をすることの許しを乞い、
守護をお願いせねばならない。

稽古は無断でやるものではない。
必ず神の承諾を得て行うのである。

そうすることによって、神の高次元のエネルギーが
その稽古場に降り注ぎ、場の空気が変わり、
人武から神武に昇華するのである。

まず、稽古するに当たってやるべきことは、
「稽古場の水火を整え」神武の稽古が
出来る環境をつくることである。

高次元の霊的磁場をつくること。
これ指導者必須の心得である。

このように、道場は神聖な場所であるので、
たとえ稽古のためとは言え、稽古のため道場
に入場する時には、きちんと身だしなみを整えて
入るのが稽古人としての常識であると思う。

髪の乱れを正し、清潔な稽古着を着用し、
足袋などは穴が開いたものは避けること。

言っておくが、何も新しくて高級なものを
身に着ける必要はない。

安くてもいいから、汚れ、ほつれ、破れが
ないように気をつけること。

稽古によって、そういった細かいことに
気持ちが行き届き、周囲に悪い印象を与えないような
気配りの出来る人間になってほしいと言うことである。

破れたり、また垢で汚れていて、悪臭漂うような
衣服を身に着けているのに、それを放っておく無神経さ、
配慮の無さがよくないと言うのである。

また風呂にも入らず豪傑ぶっているのも、
どこかずれていると言える。

これは、何も道場稽古に限ったことではない。

世間で、人どうしの交流の中で、これは
慮らねばならない大切な心構えであり、良識であり、
マナーだと思う。

願いをもって神社にお参りする時や、
人に頼みごとをなすには、それなりの用意と心構えを
もって行くであろう。

身を清め、衣服を正し、心を鎮め、また言葉を改めて
神の前に、あるいは依頼する人に額ずく。

こういった、高次元の存在に対して、形に表して
祈ることを顕斎と言い、形に顕さず誠心誠意気の
持ちだけで神に対することを幽斎と言う。

どっちが良い悪いというものではなく、
この顕斎幽斎が五分五分でバランスが取れているのが
望ましい。

私たち現界に生きる者は、眼に見えぬ心を、
形をもってあらわすことを旨とする。

私たちは、形に表すことで、心を向上させることが
出来るという、まことに素晴らしい世界に
生きているのである。

霊界へ行ってしまうと、それが出来ない。
心をもって心を磨くことほど難しいものはないのだ。

心が清ければ、形なんて問題じゃない・・・
と言うが、これは違うと思う。

気持ちを形に表す、そしてその表した形が
心に帰ってくるのだ。

悪いことを思い、悪いことを形造れば、
悪い気、つまり罪や穢れとなって
魂に積まれていく魂を汚し薄くしていく。

それが、病気や災害、事件、事故につながる。

良いことを思い、良いことを形造れば、
良い気、つまり徳となって魂に積まれる。

それが、幸福や健康、安全となって魂を
光らせ豊かにしていく。


そこで何が行われるのか、そのために何を着ていくのか、
そこに合う言葉回しはどのような言葉が適切なのか、
姿勢や態度は、また気持ちの持ち方は・・・。

など時所位にあった、そこにぴったりと
はまる形を見出すのも稽古の大切な要素のひとつである。

ボロは着てても心は錦・・・という歌があったが、
そのようなことのレベルにある神人はまことに稀である。

また、それを見破る人も稀である。
凡人の我々としては、ボロを着れば心も寂しくなる。

人も見かけで判断する時代はまだまだ続く。

人の心根を審神(さには)する方法を学び、
自らも心正して生きていく稽古事が
もう少し世界に広がって、
本当に内外一致した状態が確立されれば
また話は違うであろう。

しかし、ほとんどの方は思いと形は
比例するものだ。

やはり、まずは気持ちを正すため、
着るものも気を配るべきだ。

徹底的に形を追求していくと、
やがて形は消えていくのだ。


場をわきまえる話をもう一つ。
奉納は神様に技を捧げるのだから、
稽古着姿は失礼である。

やはり着物に袴の着用となる。

拝殿に上るのに、稽古着姿では、
例えば作業着姿で結婚式に出席するようなものだ。
時所位を心得ていない所作といってよい。

また、道場の稽古に、何も知らない初心者なら
いざ知らず、特別な場合を除いて普段着姿で
稽古に望むのは感心しない。

水火を合わせる技の稽古を行うなら、
まず着るものも皆に合わせる配慮も必要だ。

何事も、略式のままで過ごすのはよくない。

気持ちを改める意味で、着るものを場に合わせ、
また清潔で、清清しい姿と心で稽古に励むこと
が大切であると思う。

白い道着は、白い雲、天を示し潔白を表す。
蒼い袴は、地の世界、海原を示し誠実を表す。

藍染の袴は、心身の健康に良く、怪我をしても
化膿しない。

また、道着の上に締める帯は丹田(下田)を意識させ、
袴の紐によって腰の周りをクルクルとまわし、
締め付けることによって、骨盤が固定され、
全体の動きがどっしりとして安定してくる。

どうせ袴を履くなら、値は張っても、生地の分厚い
藍染の袴を着用することを勧める。

丈夫で長く使え、また履くほどに体になじむ。


続く・・・