特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座399


「バランス〜中庸ということ」


武道においては、特にバランスと言うものが大切です。
これは中庸を保つということであります。

例えば「受身」というものがあります。

これは単に倒れるのを衝撃を緩和させるための技術ではなく、
本来は相手を引き込む力、
つまり「吸う息」という意味に使われます。

そして、それと対極的に「入身」があります。

これは逆に相手との「間」をしめて前に出ると言う技術で、
呼吸は「吐く息」となります。

吐く息、吸う息がひとつの旋回を形成し、
これが幾重にも重なって螺旋運動をなし、より速く強く、
また賢くなっていきます。螺旋は向上の道です。

受身と入身は同時存在と言えます。

受身を行うためには、まず入身になり、
入身になるためには、まず受身になります。

凝あれば解あり、分あれば合あり、
動あれば静あり、引あれば弛あり、

これらは皆同時に存在しています。

なんとなれば呼吸は「吐いて吸って」で一呼吸といい
すなわちこの呼吸の一旋回は同時に存在しているからです。

しかし、人は時々、これらのバランスが狂い、
例えばある偏った所に心も体もとらわれてしまいます。

このように、ひとところに思いを残す、また
あることに偏った考えを持つ、これを武道の伝書などでは
「病(やまい)」であると唱えています。

つまり病とは、心身のバランスを失った状態、
中心の軸の狂った状態を言うのではないかと思います。

これを元の真中の位置に戻すと、病から開放される
という理屈になります。

対極するものを同時に存在できる手段、つまり
中庸〜中心軸を心得ていると、何かとスムーズにいき、
ストレスを溜めることもないように思います。

ちなみに「癒し」というものが世間で流行っていますが、
癒しは弛(ゆる)みですから、癒しを求める方は、
きっと引く、張るなど緊張状態が日常に多いのでしょう。

前後、上下、左右のどこにも偏ることなく、
常に中心に修正できるバランス調整機能を体に宿し、
いつもその目盛りを確認しておけば、

「あっ、今日は出すぎたかな」「今日は消極過ぎたかも」
と自分を審神(さにわ)できます。

そして「ああ、これはだめだ」とばかりに
中心に修正を始めます。
この修正こそ奇跡的癒しを発生させる基なのです。

また回復と言うことですが、旋回力によって体を緩め、
歪みを直し、元(中心)に復すること、これがいわゆる
回復なのだと思います。

中庸でいること、平常心でいることが何よりですが、
現実にはなかなかです。

人間も長い間やっている内には、あっちに偏り、
こっちに傾きすることも当たり前です。

人間として、安定期にはいるためには、
当初は多少の努力や根性といったものも必要だと思います。

やがてそれを脱して、努力も、根性も意識しなくなる
時が訪れます。そうなればしめたものです。

心の安定期、これは平常心というものでしょうか。

柳生の伝書に平常心についてこう書いてあります。

『常の心と言うは、胸に何事をも残らず置かず、
後をはらりはらりと捨てて、胸が空虚になれば、常の心なり』

私はいつも平常心で生きたいと願いますが、
でも一喜一憂どころか相変わらず
喜怒哀楽の車輪をぐるぐる回しています。

喜怒哀楽〜これも神が私達に与えてくださったものですから、
喜びばかりでは、きっと人間的向上もないのでしょう。

様々な感情がバランスよく、消えては表れ、
また現れては消えるなどして、それがきっと自分という
人間を磨いてくれるのでしょう。

神の慈悲だと思います。


続く・・・