特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座 誌上講座

誌上講座486


「絶対なる神の力〜反射力」(2)


神は「無限絶対無始無終」の存在であると言う。

この意味が、ただ単に哲学的にしかとらえていなかったが、
75劒の稽古を通して、あらためて、
その力を実感として理解できる。

とうてい神の力など頭で理解できるものではない。
眼に物見せる体験でしか神は理解出来ない。

すさまじい螺旋の渦の中に、五体を没入させてみると
まるで、その力はいつ果てるとも知れないエネルギーの
実在そのものであることを知ることが出来る。

なぜ人は大自然の摂理に適わないのか、
大自然に立ち向かっていく者はなぜすべて滅びるのか、

そういったことがうまく口で説明できないが、
体が頭より先に理解していく。

螺旋は留まるところを知らない無限のエネルギーであり、
そこから生まれる反射力こそ絶対なる「神の力」である。

こういった大きな力に抱かれている自分たち人類は、
本当に幸せなんだと言う思いが湧き出で、
無性に安堵感を覚える。

そして畏敬の念とともに、
神の前に無条件でひれ伏す自分を
素直に認めることが出来る。

この方に身をゆだねていれば大丈夫なのだと。

絶対なる力の存在の前には、
人はすべて赤子のように心澄み切る。

まさしく「ス」に帰ることが出来るのだ。

神と同じ力の法則を学ぶことは、
とりもなおさず、この「ス」に帰るためである。

75劒の稽古がそうである。

スから生まれた言霊は、75声に広がり、
そしてまた中心のスに帰一することを学ぶ稽古である。

以前の誌上講座で書いたものと重複すると思うが、
この点から起こり、円周に広がり、また点に帰っていく
その膨縮圧のエネルギーの様を日本では一神即多神、
多神即一神と言い、
またこれを「うしとらのこんじん」と唱える。

我々人類は、うしとらのこんじんの手の中にある内は
螺旋波動に包まれて、
まことにバランスのとれた状態にあって
安心でいられるのである。

しかし、この神の渦から離れた時、
つまり螺旋の外に放り出された時厄難に遭遇する。

螺旋の外、そこは悪神の巣窟
「鋭角波動の世界」なのである。

反射力は災難を跳ね返す力を有する。

下手に空手や柔道をやって
人を傷つける技を身につけて自身を守る術を学ぶより、
この反射力を身に着けることこそ
最大の護身術であることを知ってほしい。

国レベルで言えば、
下手に上面だけの軍備を拡充することをせず、
いまこそ「戦わない武」の技を練るべきではないかと思う。

もし、相手国の挑発に乗って戦えば必ず泥沼化する。
そして、何より戦うこと自体が神慮に反し、
神の怒りを買うことになる。

これは他国に対するより、その怒りは大きい。

例えば、我が子が言うことを聞かないで喧嘩をしたとき
例え相手の子が悪くても、きつく我が子を戒めるように。

そうなれば取り返しがつかない。

いま絶対戦ってはならない。
いま戦えば悪神の思うつぼである。

人を傷つけず、人に傷つけられず、
人もよく、われも良し・・・の道を詮索し、
必死で反射力を国防の技となすべきである。

かって日本は「言霊の幸はふ国」と言われた。

それは単に言葉の美しさだけを賛美したものではなく、
言霊75声の水火が、この国全体を覆う霊衣として、
日本を守っていたことを言う。

和光同塵以来、言霊の結界が破られた今、
早急に言霊の結界を組みなおすことが求められる。

国祖の神は、この時に備えて玉鏡劒の中に
言霊の秘密を隠しておかれた。

危難は、身に降りかかってからでは遅すぎる。

身に降りかからないよう、常に反射力なる「鏡の力」を
身にまとっていることがこれからの時代に必要
かつ急務なことと思う。

今悪魔は猛威をふるい、
弱いところに急襲する構えである。

私は心ある人に「75劒を・・・」と
必死で訴え続けるつもりだ。

続く・・・