特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座 誌上講座

誌上講座543


人あってこその稽古


私ももう50の声を聞く。

この年になると何かと周囲からお役を仰せつかり、
やむなく引き受けることも多い。

今日もある会で長に立たされた立場上、
本来なら出席不可能の中、
必死で時間をつくり、毎月幹事会を催す。

「時間はつくらねば出来ない」ということを
つくづくと知る年齢でもある。

周囲から度々促される行事を開催するため、
事あるごとに審議を凝らす。

こういった会議では、苦言も多い。
ご機嫌が悪い人もおり、
ここぞとばかり食って掛かる者もいる。

「こうなったのもすべて会長の責任だ」

「だから私が前から言ってるのに
全然改善されない。一体どうなってるんだ」

思えば、あまり大した問題ではないのに
事を大げさに口角泡を飛ばして
矛先をこちらに向ける。

『鎮まれ、鎮まれ・・・』と、
こちらも、ひそかに見えぬよう螺旋を描きつつ、
その人の発する強烈な鋭角波動をなだめる。

相手が何を言おうと、宇宙の力、螺旋には
勝てるものは存在しない・・・と言うことを
我々は和良久で習っている。

さて、不思議や、徐々にこちらの
エネルギーの中に同調し、
言葉と態度に変化がおきる。

きっと家庭で何かあったのだろう、
仕事で行き詰まりもあるのだろう。

『かわいそうな人だな・・・』

悪口を叩く相手に、いつしかこちらも
同情心に変わっていく。

心の弱い人は、自分の責を認めることが出来ず、
何かと「こうなったのは自分が悪いのではない、
みんな人のせいなんだ」と自分を擁護する。

また、自己責任となって、
ふりかかる問題を受け止め、
丸くおさめる度量がないと、
とにかく逃げることを考えるものだ。

それが他者攻撃型のタイプを生み出す。

そんな他者攻撃型の人が
必ず言う言葉がこうである。

「みんながそう言っている」

合言葉のようにこれを繰り返す。

『私と同じ意見をもった味方が
たくさんいるんだよ、あなたは孤立しているんだ。
間違っているんだよ』と言いたいようだ。

しかし、その「みんな」とは?

ある時、そのみんなの一人と
思われる人に会う機会を得、真相を聞いてみた、
すると・・・

「ええ?、そんなこと言ってないよ。
私は、あの人が言ったことに、
仕方無しにうなずいただけなのに・・・」と言う返事。

たいがい、そんなものである。

こういった否定的かつ攻撃的な心理を
大衆の心理と言う。

大衆の心理とは、大勢でお互いの傷口をなめあい、
労わりあう、弱者にとってとても
心地よい温床なのだ。

弱者の仲間意識は強い。

しかし、一端、その仲間から抜け出すと、
急転、仇のように攻め立ててくる。

私は虐げられているという被害者意識が強く、
人の成功ねたみ、失敗を喜ぶ。
まことに困った集団だ。

こういった大衆の心理に惑わされず、
「私はこう思う」と、
はっきりとした自己の確立がなければ、
現界においてその人は死したも同然だ。

人というもの、問題に直面する度に鍛えられ、
グレードアップしていくことを知っていると、
「ああ、また私はこれで次元が向上できる。
ありがたいなあ・・」
と感謝する気持ちさえ芽生える。

まさに逆境は、成功へのチャンスであり、
ステップなのである。

そんな人は、何かとチャンスをものにし、
運命を好転させ、成功をおさめている。

しかし、正面から問題を受け止められず、
逃げると言う行為に走るといつまでも
陰にあって陽の当たるところには出られない。

つまり短い人生、大いに損をするはめになる。


話は戻るが、自分にとっては不得意分野ではあるが、
任された役なら、誠心誠意を尽くさねばと思う。

正直、私の頭の中は稽古のことで
いっぱいで、

「ああ、今頃あの稽古場では
皆このような技に取り組んでいるんだろうなあ」

「あの人はちゃんと来てるかな?」

・・・など、身はここにあるも、
気持ちは常に稽古人とともにある。
私の体は常に皆とともに道場にある。

そんな気がかりを残して、慣れない会議の中に
やむなく身を置くのはけっこうつらい行である。

でも慣れぬことだからこそ、逃げてきたことだからこそ、
神様は私にチャンスを与えてくださったのだと思う。

先日も、ある会合で、先に言ったように、
私に噛み付いた人がいた。

とりあえず、
「ごめんなさい。すべて私の責任です」
と謝った。

もちろん真相は私の非ではない。

自分が潔白であれば自信がある。
自信があるから悠々としておれるし、
謝ることも出来る。

一緒の目線に立って、にらみ合い、
噛みつきあうのは獣の所為である。

しかし、その時は、さすがに
旅のくたびれも手伝って冷静に見返る余裕がなかった。

それで、家に帰ってからも、
心や安からず憮然としていた。

大衆の心理に惑わされている状態であった。

これではいけない、第一
こんなことを考えている時間がもったいない・・・
と思い、眼を閉じ、心に問うた。

そうしているうちに恍惚とした状態に入った。

すると、どこからともなく(心の中から)
女神の姿が現れるともに、声が聞こえた。

「あの人は、私があなたに差し向けた人です。

あの人は、あなたに福音を授ける人なのです。

あの人を恨んではなりません。

あの人に心から感謝しなさい。

もし、あなたがあの人を恨むのなら、
それは私を恨むのと同じことなのです」


威厳に満ちたこの言葉に、私は一気に怒りが解けた。

思えば人の世にあって、人は己を磨く磨き
砂のような存在であり、人との出会いは
向上への兆しなのだ。

その人にとって必要な人を神は出会わせ、
その者を通して神は言葉を投げかける。

人を避けて向上はなく。
人を避けて神の存在を認め得ない。

前に、前に・・・少しでも前に進みたい。
そういう願いを持ち続ける限り、
その者に神は様々な出会いを繰り返させる。

人は人をして向上し、天国にものぼり、
また地獄にも落ちる。

人との出会いを幸運とみるか、
不幸とみるかにより人生も選択される。

人生はすでにレールが敷かれたもののように
思う向きもあろうが、逆にレールを敷くことも出来る。

自分の道である。

まだ誰も歩いたことのない、
自分の選択した道を遮る草木を切り開き、
そこにしっかりとしたレールを敷いて、
新たな列車を走らせることも楽しい。

そして、願わくば、人は天より賦与せられた
天賦の才能を存分に活かして、生きていきたい。

人に尊卑を位置づけるのは、
神の意思ではなく、人の勝手である。

天は人の上に人をつくらず、
人の下に人をつくらずという。

かように、人の心持ちも常に等しくあらねばならないが、
もし人を見下したり、また上に見上げたりするような
アンバランスな状態にあるなら
つとめて均衡を保つようせねばならぬ。

この均衡のレベルに戻すのが稽古なのである。


人を非難する前に、世を嘆く前に、
もっとやらなければならないことがあるはずだ。

もっと根本的なこと。
もっと魂が揺さぶるようなことが。

もっと神を讃美し、
神につかってもらえる自分をつくるような。

そのために何をすればよいのか。
どのように鍛えればよいのか。

自分を磨くことをしないで、
何を人にどうのこうの言うのか。

人の精神的次元をどのように見ているのか。

人の心を読めないで、何を勝手なことを言うのか。

話し合いは大事であるが、進展する話し合いとは、
少なくとも同じ道を認めて実際に歩み、
同じ鍛錬を積んだ者同士でなければ困難を極める。

基本的に、話し合いとは、
行っている者どうしが話し合うべきだ。

「行」と「言」があってこそ「心」がつながるのだ。

自己鍛錬を怠り、他に責任を押し付けるような
心身の弱い者らが集っても、
傷口のなめあいにしかならず、先になど進めない。

例えば、高い山に登ったこともない者が、
人が登った体験談を、さも自分が登ったことが
あるように話しだす様など愚の骨頂である。

だれだれが、こうおっしゃった・・・
こんな本にこう書いてある・・・
など言うオタクの集まりで何をやろうと言うのか。

人にとって大切なのは、唯一体験を積むことであり、
「自分自身がどうであるか」である。

人生は体験主義でありたい。

体験できないと言うのなら、
体験を行える環境に身を置くことだ。

その環境をつくるのが「道場」である。
道場では、口で技は行えない。

また周囲も納得できないし、
第一通用のしない動きなど誰も相手にしない。

私たちがこの世に生まれてきたのは、
見えないものを見えるように形づくるために
遣わされたのである。

神も人あってこそ世界を統治する。
人に出来ないことが神に出来る。

しかし、神に出来ないことが
人に委託されているということを忘れてはならない。

神は偉大である。
我々は神に命をいただいた。

その神の計画を受け、神に遠慮なく使っていただける
自分をつくりあげることが
真の人生の目的であり、稽古だと思う。


続く・・