特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座 誌上講座

誌上講座552


宝物探し


武道は、おそらく通常の人間が、
普通に生きていたら一生かかっても
遭遇することのないような
驚くべき潜在的能力を短期間に開花させる
素晴らしいノウハウをもっている。

人の心の中には、例えば玉ねぎのように、
幾層にも重なった心があり、
中心に近づくにつれて
五感を越えた能力を発揮するのだ。

心の変化は即体に現れる。
心が変われば体も変化する。

もし、心の中の一番中心部分に達することが
出来たならば、吾即神なり・・・
と微塵も増長することなく
神に等しい力を自覚するであろう。

自分と言う存在が誇らしく思え、
同時に人という存在そのものに心から敬意を表する。

自分の素晴らしさを知ることは、
人間の素晴らしさを知ることである。

それは、自分が素晴らしいように、
他の人も素晴らしいのだということ、

そして、自己の能力と同様、
いやそれ以上の能力を他の人も秘めているのだ・・・
と言う他に対する畏敬の念が湧いてくる結果となる。

キリストの言う
「自分を愛するように人を愛する」という感覚である。

ただ、そこに至るには並大抵の人生経験では
不可能に近い。

ひたすら一定の法則(言霊の法則)に合わせ、
短期間にのうちに以下のことを疑似体験させるのだ。

これが武道が保有する驚異的なノウハウであり、
武道があらゆる伝統文化に比して、現代まで
廃れず受け継がれてきた要因でもあろう。

それは「三大学則」の実践そのものである。
「まことの学び」とはこういうことを言う。


一、天地の真象を観察して、真神の体を思考すべし。

■剛、柔、流(鉱物、植物、動物の本質)の三元を学ぶ

〜稽古において、固いしっかりした骨、柔軟な筋肉、
  そして綺麗な血液を造り出す。


一、万有の運化の毫差なきを視て、真神の力を思考すべし。

■凝、解、分、合、動、静、引、弛の八力を学ぶ

〜稽古において、八つの腰の使い方と、それにともなう
  呼吸のあり方を知る。


一、活物の心性を覚悟して、真神の霊魂を思考すべし。

■幸魂、和魂、荒魂、奇魂、直霊の一霊四魂を学ぶ

〜稽古において、ウの言霊と前後運動で直霊を、
  オとエの言霊と上下運動で和魂、荒魂を、

  そして、エとイの言霊と左右運動で幸魂、
奇魂を知る。


以上、「霊・力・体」の三つの学びを
同時進行に行じていかなくては
まことの学びにはならない。

そして、人の中に宇宙を観、神を感じるまで、
徹底的な自己練磨を繰り返す・・・
これが現世における修養というものである。

目標、目的は、唯一「真神」(創造主)の
全体、全能を知ることにあり、その在り処は、
実は自己の中にすでに保有しているものであることを、
はっきりと自覚することなのである。

まず神を認めること。
そこに理屈はいらぬ。

神認めなばその者に無限の力備わる。

決して神を試してはならない。

学者に悟道に至る者なき現実を見よ。

かえって、心純粋にして
無学なる者に道を開けること多し。

懐疑的にものを偏り見る現世のほとんどの者が
本当の自分とまみえることなくこの世に別れを告げる。

もったいないと云うべし。

神はどこにある・・・?

まず、人の中に神を認めることである。
表面的にはどうしても認めにくいが、
心の中を覗いてみると
きっと光るものを感じるはずだ。

見えない?

表の層では見えぬ。
もっと、もっと奥の層に行かねば。

幾層にも重なる「疑いの殻」を剥がして、
やっと本当の心に出会う。

鍵のついた箱の中に、また鍵のついた箱が
入ってあって、また、その中に
鍵のついた箱が入っていて・・・
一体いくつあるのか人によってその数も異なるが、

人生とは、この箱の一つ一つ鍵を開けて、
さらに中にある箱を順に開けていくような
作業工程を行うことである。

そして、とうとう最後の箱にたどり着いて
その鍵を開けた時こそ
本当の自分に出会えた喜びを感じる。

それは神と等しい自分を
はっきりと自覚することになる。

このように、悟りの道は遠い彼方にあるのではなく、
自らの中にすでにあるのである。

この鍵を開けること、
つまり今の自分の殻を脱ぎ捨てるには、
その人のもつ精神的沸点と肉体的限界点を
ほどよく越えさせることである。

よく「癒し」といって心地よさを感じるところまで
もっていって、心を解き放つことを行うが、
物事は安全すぎると居心地が良すぎて沸点に達せない。

また逆に、スポーツや格技など、
肉体を危険な状態に追い込んで
限界点を越えさせることも行うが、
危険すぎても心のブレーキがかかって
停止状態となる。

安全過ぎず、危険過ぎずその中庸のところをもって
「越えた感性」を開花させることが大切だ。

安全状態の長期継続は、人の心身を怠けさせ、
危険状態の長期継続は、人の心身を蝕んでいく。

食事で例えれば、安全というご飯に、危険と言う
おかずを食べるようなものである。

われわれは、樫の木で出来た硬い木剱を使って
稽古をしている。

これは、当たれば痛いでは済まないほどの
代物である。

木剱という危険な代物を使って稽古しているのは
古武道ではよくあることであろうが、
如何せん彼らは「型」に終始しているだけである。

型は安全である。
これだけに終始していては剣舞に等しい。

武道は応用の世界である。

武道は、いつ、どこから、どのようにやってくるか
分からない相手の動きを捕らえて技を行使する
「応用」の分野なのだ。

この先、一体どうなるの?
と言う、わくわくする冒険心が脳を活性化させる。

そして、もしこの剱が当たったら大変だ、
という危険意識が、怠けようとする神経に
刺激を与えて体を機敏に動かす。

危ないからと防具を着用し、
竹刀、ゴム、プラスチックなどの
安全な道具を用いて練習(これは稽古と云わない)しても、
本来の自己防衛機能にスイッチが入らない。

それは遊びである。
遊びから本質に食い入る能力開発など望めない。

絶対危険と絶対安全とが
同時に存在する稽古でなくては人は育たない。

和良久は、基本の型として腰を練る「八力」と
水火を練る「八剱」がある。

これをしっかり稽古していると、
気剱体の三つがしっかり融合して来るので、
相手を傷つけるという暴走的な剱の扱いは
皆無といっていいほど無くなる。

腰をつくり、腰に従って剱を動かすということが
出来るとまったく安全なのである。

この、安全を確保する基本動作をもって、
危険の伴う冒険に旅立つ。

その冒険の過程において、先にいった箱を
一つ一つ発見して、
その鍵を確実に開けていくのである。

その箱を開けるたびに
人は驚異的な成長を遂げるのである。

箱は、時に2〜3個同時に開くこともある。
あるいは一気に、
中心の箱にたどり着いていくこともある。

稽古は、人生という長い道のりを無駄にしないで
歩いていく方法を学ぶものとも言える。


思えば人生は宝物探しの旅である。

「宝物を捜そう」人はまずそう決意し、
その目標に向かって歩き出し、
ジャングルを掻き分け、襲い来る獣を避け、
やがて宝箱を発見し歓喜に打ち震える。

早速箱を開ける、しかし、
箱の中には本当の宝物は入っておらず、
次の場所への地図が入っている。

その地図を頼りにまた冒険の旅に出る。
その後も何度も危険にさらされ、
箱を発見して喜ぶのもつかの間、
箱の中には次の地図が・・・。

やがて、疲れ果て、心身が限界に達して
「もう宝物なんてどうでもいい」そう思った頃に、
最後の箱を発見する。

淡々と中を開ける。
しかし、中にあったのは金銀財宝などではなく、
ただの石ころだった。

しかし、その時、冒険者はすでに
かけがいのない素晴らしい宝物を
得ていたことを知るのだ。

その宝物は永遠に変わらない輝きを放つ
世界に二つとないものであることを知る。


続く・・