特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座241


「ツルギと木剱の違い」 (2)


私も過去に自分の木剱、相手の木剱など、
たくさんの木剱を折ってきました。
奥山忠男先生が「またですか」そう呆れるほど折ってきました。
しかし「いいんです。これは道具ですから」
そのように、先生はきっぱりと言い捨てておられました。

奥山先生は、木剱造りに生命を注がれました。
その先生作成の木剱は、まことに見事なものでした。

あのような木剱を削れるようになるためには、
単に削ると言う職人さんだけの仕事では不可能です。
現に同じ形をつくれる方がいらっしゃいますが、
「実際に稽古されれば分かるのに・・・」
といつも残念に思っています。

稽古する者こそが削れる・・・これが本道だと思います。

弛まない稽古鍛錬を通して、その剱の扱いを学び研究し、
螺旋の技というものを、また宇宙の法則いうものを
しっかり理解しなければ、
あの木剱を良く仕上げることなど出来ません。
私も師にならって何本か削りました。
削ったものはすべて人に差しあげました。

技がまだ未熟な時代のこと、いま思えば
形ばかりの水火の悪い仕上がりだったことを思い出します。
木剱は、いつか朽ち果てる道具です。奥山先生が、
そう認識しているように私もそう認識しています。
剱は、飾るものじゃなく使うものです。
大事なことは内面の充実のために鍛錬するということです。
しかし、より深い内面の充実は、
外側の高い次元の存在が内に比例してくるものです。

内面の向上のため、よい道具を選び、
よく管理していくことが大切です。

かといって過剰な扱いは
かえって遠いものにしてしまい身につきません。

ツルギを目指し、そのために一心に練磨を積み、
手の内に水火の力満ち溢れた感を得た時、
形ある木剱は形を消し、無形の、祈りにも似た
ほとばしるエネルギーの延長というのでしょうか、
渦巻く螺旋の力と言うのか、
そういったものが手の内に感覚として残ってきます。

そうなれば、もう手は木剱を選ばず、
腰に位置する八力の活動力のみが表に現われてきます。

願わくばツルギの神霊に満たされ、
神の手足の一部としてお仕え出来れば幸いです・・・
和良久に関わる者は、
そう祈って稽古に励まれることを切に。

続く・・・