特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座270


「木劒と水水火」(1)


「木劒は道具であり、消耗品である」

こう言うと「神聖なる武道の劒に対して冒涜だ」と
お叱りを受けそうだが、実はこれは
奥山師から出た言葉なのである。

何年前だろうか、
私も師からこの言葉を聞いたときには、
耳を疑ったものだ。

修行当時、私は連日の激しい打ち込み稽古で、
師が丹精込めて作成された木劒を、
次から次へと、かたっぱしから何本も折ってしまい、
「また折りましたか・・・」ため息とともに、
度々先生をあきれさせたものだ。

この木劒、ご承知のように
決して機械で自動的に出来上がるような、
量産物ではない。

日本武道復活にかける奥山師が、
それこそ命を削って、一本、一本つくり上げた、
同じものは二本とない逸品なのである。
さて、この佐々木小次郎の木劒を復活させるための
師の努力には並々ならぬものがあった。

奥山師は、戦時中、陸軍中野学校
(軍のエリートを教育する機関で、
いわば日本版007のような者を育成)の
武道教官という経歴をもち、
敗戦後、誰もがそうであったように
奥山師も、やはり行き場を失い放浪する。

しかし、大本三代教主、出口直日様に出会い、
人生観を一変させる。
いまの私が四代教主にお導きをいただいたように。

一時、親和体道の創始者、井上方軒師に師事するも
「武道をやめてはならない」
「弥勒の世になっても武道は必要である」
などの言葉を三代教主より賜り、
日本武道の根源を探求することとなる。

師はまことに偏屈で、頑固。
だからこそ難解な理念をまとめあげたとも言える。
変わり者と人から言われ、
そうして自らを孤立させて
劒の探求に没頭したとも言える半生であった。

さて、巌流島で略奪されたとされる小次郎の木劒は、
年を経ても、なをその原型を当時のままにとどめてはいるものの、
一部の部分の損傷や、変形などで忠実な再現は困難を極めた。

元の劒の寸法を取り、また工夫を凝らして
復元作業は進み、ようやく現在の形になった。
木劒を一本作るのに、原木の切り出しから、
水中乾燥をし、また水中から取り出して、
長い間地上で乾燥させ、引き割り、そして削る・・・。
この削る作業も、もちろん手で行うのである。

まず、鉈で荒削りをしてだいたいの形を浮き彫りにし、
次に鉋がけで形を整え、バランスをとり、
手の握りの微妙な細工をし、ヤスリがけ、
ペーパーをかけて仕上げる。
本当に気の長い工程を経て一本の木劒が姿を現すのである。

続く・・・