特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座 誌上講座

誌上講座356


「まことの武〜矛と劒の真相」


中の劒の稽古に入り、急速にウの世界が
身近に迫るようになった。

呼吸には、重・中・軽の三種がある。

重は吐く息。
軽は吸う息。

そして、その狭間が中で、吸う息と吐く息が
同時に存在する世界である。

これを「ウ」と言う。

いままで、見える形で稽古を行ってきた。
つまり、劒を打って、劒でそれを組み、
打ち返す稽古を積んできた。

しかし、物事の成長過程とは、形に現されるものを越えて、
形として現せない世界に没入する素養を養うにある。

ならば、これを実践するべきである。

しかし、いままでの教育は、
それを観念の世界で処理しようとしてきたことに
無理がある。

私たちは、現界に生きている。
現界は物質世界である。

この与えられた肉体をもって、物事を学ぶことをしなくては
本当に見につくものではない。

見えない(幽)ものを、見える(顕)かたちで学んでこそ、
納得のいく世界に我々は生きていることを忘れてはならない。

劒の道とは、そういった「幽」を「顕」に変えていく過程を
五体をもって体験する道である。

中の劒とは、幽の世界を知るための稽古であるといってよい。

「重の劒」も「軽の劒」も、吐く息や吸う息という
見える形で打ってきた相手の劒を組んできた。

初段階として大事な稽古である。
これを顕斎という。

これを、見えないうちにとらえる感性を養うのである。

劒を打たないで水火を打つ。

劒を組まないで水火を組む。

この二点に尽きる。

吐く息や吸う息として現れる前の段階で
お互いがやり取りされる稽古。
これを幽斎と言う。

この稽古により急速に幽の世界が身近に感じてくる。

人の水火に対して敏感になり、次に地の水火、
そして天の水火に対する感覚が研ぎ済ませれてくる。

人の水火も天地の水火も同じであると出口聖師は喝破された。

私は、これを素直に受け止め、鍛錬の目的とする。

宇宙の真相(水火)を知ることを欲するなら、
まず人の真相(水火)を知ることである。

中の劒は、劒の打ちが形に現れところをとらえる。

つまり水火を組むのである。

そして、その水火をわが加力となして、
旋回に結びつけ、打力に変える。

猛烈な旋回力を発生させる。

このことを具体的に説明するのは、
誌上講座では困難である。

実地の稽古によるしかない。

あえて言うならば、例えば、八劒のいずれかを打つときに、
旋回を起こすが、その旋回が力の発生であり、
これを「○」とする。

そして、例えば「解」を打つならこの「○」を描いた後に
「/」の線を描いて発射する。

この「/」が相手にとって形となった、
つまり解という「顕〜劒」となった実態なのである。

しかし、この「/」は、「○」と言う旋回あって
生まれたものであるので、「/」は、この「○」が
発生されて後に飛んでくるしろものである。

この時、「○」が幽であり、「/」が顕となる。

顕として現れる前、つまり幽の内に入り身に入って、
この力を組み、その力をわが加力に変えることである。

ついでに言うと、この「○」を「火凝(矛〜ホコ)」と言い、
「/」の部分を「劒(ツルギ)」と言う。

「火凝」は、内なる力であり、
これが表に現れた時「劒」となる。

要約すれば火凝は潜在的意識の力であり、
劒は顕在的意識の力である。

一般に言う「武という字は、矛を止めると書く。
よって、破壊的武力を制止する意味である」

・・・と言われるが、言霊で解釈する本当の武の意味は、
火凝(ホコ)なる潜在的力に目覚め、
それを体内(丹田)にとどめる」と言う意味である。

フトマニノミタマ、一名を火凝霊と書いてカゴタマと読むが、
この火凝霊こそ「矛」の姿である。

そして、ますみの鏡に表される75声、
それも水茎文字によって表現される75声こそ
「劒」の顕現なのである。


続く・・・