特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座362


「日本武道始まって以来の戦い」


水火を打つ・・・・と言う感覚。

これを是非ものにしていただきたいと思います。

「剱を打たずに水火を打つんだ」
私は、かって、そのように老師から
叩き込まれました。

見えるものから、見えないものの世界へ
没入していくことを言ったものです

これが分かれば、『次にくるべきもの』が、
読めてきます。

解という打ちで言えば、解と言う打ちを放つために
相手が旋回を始めた時点で解が分かると、

こちら側としては、次の対処が、かなりゆったりと、
また気持ちにもゆとりが出来て動くことが出来ます。

『先が読める』それがたとえ、
一秒先でもとらえることが出来たならば、
災害時に生き残る可能性も、
通常の感覚をもった人より高いことになります。

古来、武道家はこの「先読み」をもって
次になすべき技を決定してきました。

和良久の皆様には、一秒でも長く生きていただき、
一人でも多くの命を救っていただく
『もののふ』になっていただきたく思います。

さて、いま筆舌に尽くしがたい、切羽詰った
身の毛もよだつような事象多い大変な時代を
迎えています。

時は、カウントダウンをはじめ、
悪魔の攻勢徐々に勢いを増してきています。

天候の不順は、人心の荒廃に因り、
その人心の荒廃は同時に邪気を発生させています。

また悪魔の進入路は、テレビ、インターネット、
携帯電話などの普及により、かってないほど
容易に構築されています。

そのマスメディアに乗って、
わが世界に怒涛のごとくなだれ込んできています。

その気配を感じているのは、決してわれら
少数の者たちだけではないでしょう。

現に多くの人たちが、言い知れぬ先行きの不安と
焦慮に駆られています。

狂ったのでは・・・と言われても、
今やらなくてはならないことがあります。

私たちに置き換えて考えていただけば、
なぜ私たちは剱を手に取ったのか、
その意義を考えていただきたいと思います。

すでに序章はありました。

私たち流で言えば「間を締めてきた」という
やつです。

「彼ら」は順調に、その歩を進め
軍勢を整えています。

いま、その経路を絶たなくては
大変なことになるでしょう。

彼らを呼んでいるのは、他ならないわれら
人間たちなのです。

呼ばれたから来た・・・と彼らは言うでしょう。

まず、呼ぶ人間をなくさせねばなりません。

私たちが戦う相手は人ではありません。

もっともっと手ごわい相手です。

その相手を制するには、通常に行われている
人間相手の格闘技ではだめです。

むしろ、その破壊殺傷の技の忘却こそ
勝利への道なのです。

人を傷つけず、人に傷つけられず
人も良く、われも良し

この基本精神を忘れて日本武道は成立しません。

私は六歳の時、自宅の前で、兄を追いかけて
道路を横断する際にトラックに激突され、
頭蓋骨陥没で意識不明の重傷を負いました。

その意識が不明の時、妙な夢ともなんとも
形容のし難いものを見ました。

それは、完治後もしばらく見せられました。

幼いときは、それが何なのか分かりませんでした。

しかし、この和良久の稽古に入ってから、
ようやく今になってその謎が溶け出してきました。

自分が幼少より武道と言うジャンルを選択した
その理由も分かりました。

もし私が見たような世界になったら大変です。

このようなことを言うのも、もしかしたら、
頭を打ったせいでおかしくなったのかも知れません。

何もかも私の妄想なのかも知れません。

でも、何にしてもこの近年にない
この押し詰まった感覚は、以前、
空手時代の勝負の際にもっていた、
相手の殺気をとらえる感覚以上のものがあります。

この殺気の強さ、異常さは尋常ではありません。

いまの時期、中の剱を鍛錬するはめになったのも
決して偶然ではないように思います。

こちらから間を締め、手も足も出させない技。

いよいよ気迫を充実させねば
ならなくなったようです。

これは武神スサノオの神様が、ヤマタノオロチを
退治した時以来の戦いなのかも知れません。

日本武道の技と権威を示す日は近いと思います。

自力を練るのはもちろんですが、
他力あっての自力です。

気持ちはいつでも造り主(神)とともにあることを
忘れないで前進していきましょう。

命がけで祈り、命がけで稽古する時が
きたと言っても過言でなくなってきました。


続く・・・