特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座540


神技(かみわざ)


武の技はすべて神技でなければならない。
もともと武は神の水火から生まれたものである。

神技というと神様がかった不可思議な
特別な術のように思われるであろうが、
そうではない。

一言で言えば、
神に祈って事をなすということである。

1、許可ー鎮魂
2、実行ー帰神
3、感謝

許可・・・これは技を行うときには、
神に対する許しを得てから行うということ。

神からの道をつける、つまり他力が加わるよう願い、
安心立命を確保し自信をもってする。
すなわち鎮魂である。

このとき自分を離れて無心となる。
所謂、無我の境地である。

次に、実行・・・実際に行動に移すこと。
自力に、大いなる他力が加わり、
神と一体となって
技を行っていることを信じて行うこと。
すなわち帰神状態である。

そして、最後にすべてに感謝する。


武の道は、神と一体となってこそ
初めて技が生まれる。

祈りのともなわない技は、
他力の加わらない自力だけの技であり、
肝心なところでしくじる。

それは軸のない独楽のようなものである。

力に限界があり、最初は勢いがあっていいが、
やがて減速してくると倒れる。

しかし、祈りのある技は、衰えることなく、
限界がない。

弱くなった足を支え、くじけそうな心に
新しい活力を与える。

祈りのあるとき、そこに一種の霊域が発生し、
その場の空気が神聖なものに一変する。

時に、芳香薫じ、光輝く。

勢いのない者に勢いを与え、
暗く沈んだ気持ちを明るく照らす。

そこにいる者は、癒しの力に包まれ、
病ある者は癒され、悩みある者は解決に向かう。

まさに「われここにあり!」と胸を張って
宣言をなすに至る。

そこに誰が居ようが、臆することなく
自信に満ち溢れて技を行うことが出来る。

その場に居る者は、その技に接することによって、
われ知らず威儀が正される。

先日、角川春樹先生の招きで軽井沢に行き、
同氏が主宰する神社で奉納を行った。

そこには歌手の長渕剛さんや、
その他多くの有名な方がいらっしゃった。

私は芸能関係には、まったく興味がないもので
誰が何なのかなにも知らない。

長渕さんは、自分から最初に
「長渕です。よろしくお願いいたします」と
ご丁寧に挨拶してくださったので知った。

礼拝が終わり、いよいよ私の奉納の番となった。

それまで足を崩してリラックスされていた長渕さんも、
私の礼拝が終わり、奉納が始まるや
きちっと正座され両手を膝において、
息を凝らしてご覧になられた。

(後で同氏は、以前に極真会館におられたことを
話された。私の後輩にあたるんだとわかり、
そのときの正座の仕方が、
さまになっていることが納得できた)

奉納の最中は、世の平安と皆様のお幸せを
一心に神様にお願いしつつ動いた。

その真剣が、長渕さんたち皆さんに通じたのだろう。

神楽殿と言われる殿内には、誰一人動く者なく
息を凝らして奉納を見ていた。

その後の直会(なおらい〜食事会)で、
長年、私の技を見てきた角川先生は言う。

「比良聖の技は、見るたびごとに次元が上がっている。
天と地がひとつになった気がし威儀が正される」と。

そして「とうとう武道を越えたな」
とおっしゃっていただいた。

また、列席されていた中には、
琉球古武道の先生もおられ、

「驚きました。前田さんの動きは、
達人たち共通の動きの集大成です。
それができるようになるまで、
みんな死に物狂いで稽古します。

それでも、そこに行き着く人は
何万人に一人あるかないかです。
どうやってそんな動きを覚えられたのですか?」

私はこう答えた。
「神とともなれば神技となって
自分を越える技を現します」

和良久の技が他の武道の技と決定的に違う点が、
この祈りが伴っているということ、
そして、動きの総てが神を讃美し、
悪を追いやらう動きで構成されていることである。


祈りを行うときに大事なことは、
決して疑って祈らないことである。

例えば「本当に願いを叶えてくれるのだろうか」
と疑って祈ったなら、それはだめ。

まず、最初に感謝してしまうこと。
神の力を確信するのである。
そして感謝して後、祈願するのである。

もう希望することが叶ったように、
喜んで祈るのである。

これは言葉だけではだめである。

願いが叶った明確な場面が、思いの中で
はっきりと浮かぶことである。

続く・・・