特定非営利活動法人 武道和良久

特定非営利活動法人 武道和良久

誌上講座 誌上講座

誌上講座556


45年目の感謝


大概のホテルには仏典と聖書が備え付けてある。

いままで眼に留まっていなくもなかったが、
特に手にすることもなかった。

10日ほど前のことある地方のホテルに宿泊した際、
何気なくその2冊の本に眼がいった。

聖書はすでに17歳のころから愛読していたので
「仏教聖典」と題する本を手にした。

読み始めると、これが中々面白い。

仏陀の出家から始まって・・・
悟りに至る過程の章を一気に読み終えた。
分厚い本なので、まだまだ続く。

これから教えの章に入って煩悩の脱却やら
信仰のこと、心の構造のことなどが綴ってあるが、
明日も午前から稽古があって
早く休まねばならない。もう夜中2時である。

後日、後の章が気になって、
その本を注文して取り寄せた。

そして、ぼちぼち読み始めるが
日常の忙しさも手伝ってなかなか前に進まない。

丁度慈悲について書いてあるところを
読みはじめ、今日も自分ながら考えていた。

そんな矢先の不思議な出来事・・・。


9月13日、今日は予定では大阪の稽古。

渋滞を忍んで勇み到着したら、
今日は稽古予定日ではない・・・とのこと。
よく考えれば、稽古日を変更していたことを
忘れていた。

止む無くそのまま、また車に乗って引き返すことに。

しかし、せっかく大阪に来たのだから、
このまま帰るのはもったいないと思い、
こうやって来たのもきっと何か訳あってのことだろう・・・
と寄り道よろしく適当に走り出した。

こんな機会はめったにない。

やはり、気が向くのは自分が子供の頃
育った所である。しかもここから近い。

生野区の桃谷の駅前から、勝山通りを抜け、
大池橋へ。

ここには私が3〜4歳の頃交通事故で入院した
病院「アエバ病院」があるはず・・・と思うと、
あったあった。

小さな病院であるが、ひき逃げされた私は
ここで意識不明の重態で運び込まれた。
そして奇跡的に一命を取り留めた。

思えば亡くなった両親には随分心配かけたものだ。
本当に死ぬほど心配かけたことだろう。
私もいまは子供がいるからやっと親心も理解できる。

「お母ちゃんありがとう」
「お父ちゃんありがとう」

車中から、すでに他界した両親に
あらためて手を合わせ心から感謝した。

こうして両親にあの事故のことについて
感謝したのは初めてだ。

大池橋からまっすぐ走り、右にロート製薬を見ながら
100メートルほどのところで右折すると
巽(たつみ)の町に入る。

昔、わが一家が福知山の田舎から出てきて
住んでいたところだ。

巽中学校があった。ここは私の母校。
そして、すぐ隣には「フジバ温泉」があり、
その向かいに小さなお好み焼き店、
看板は無いが「木元」という。

「木元のおばちゃん」と言って子供のとき
学校から帰ってきたら友達と毎日のように
お好み焼きを食べにいっていた店。

丁度、お腹が空いていたので懐かしさもあって
車をとめて入った。

木元のおばちゃんは、亡くなってもういないのは知っている。
でもおっちゃんがいるはず。

しかし、中に入ると中年の夫婦二人で汗して
頑張っている様子が見える。

この人、名は忘れたがうちの兄と同級生である。

おばちゃん同様、愛想もなにもなく、
ひたすらうつむいてお好み焼きを焼いている。

ここの子供も母親のお好み焼という仕事だけで育った。

私が覚えているのは、今のご主人が中学生の頃の姿。

目の前でお好みを焼く姿に
「木元のおばちゃん」の姿がオーバーラップする。

「何にします」とも聞かない無愛想ぶりもそのまま。
いや、悪気などないのだ。
ここはそういうところなのだ。昔から。

「あの・・・モダン焼き頼みます」

と言うと、こっちも見ないで「はい」と答え、
早速黙々と焼き始めた。

モダン焼きなど、子供の時は高くて手が届かなかった
高級な一品だ。

焼きあがった。
テコで切ってそのまま食べる。
箸など使わないのが大阪流。

見かけは悪いが、味は昔のおばちゃんの味
そのままを受け継いでいる。
うん、おいしい。懐かしい。

満足して店を出、次に向かったのは、わが家。
とは言え、もう家は無いが。

確かこの辺に、と車をゆっくり走らせてみると、
そこには随分モダンな家が建っている。
私が住んでいたあばら家はすでに無い。

なぜここだと判ったかと言うと、
家の隣に小さな「念仏堂」があるからだ。

念仏堂・・・成人してから帰宅して何度かここへも来てるが、
いつも素通りしていた。

今日も素通りしかけた。
そういえばこの土地を出てからというもの、
この念仏堂に手を合わせたことがなかったことを
思い出した。

しかし「寄りなさい」と誘うかのように
念仏堂の灯りが煌々とついていている。

「何の用だろう」と思い、引き寄せられるように
車を停車させ、念仏堂の前に立ち、
お賽銭を入れお参りした。

「随分ご無沙汰しましてすいません。
お蔭様で比良聖は元気に過ごさせていただいてます」

そう祈ると何かが心に入ってきた。仏様だ。

次に車に乗って「せっかく懐かしいところにきたのだから
どこに行ってみようか」と思って走り始めたら、
前に子供が4人自転車にのって
狭い道路いっぱいに走って前方を遮っている。

まあ、ここは子供らの自由にさせよう、と思い、
前に進まず、ハンドルを左にとった。

すると、そこにこの地の産土の神社である
「巽神社」が真正面にあった。

早速車をとめて参拝。
天照大御神、天児屋根命などが祭神である。

裏を廻るとお稲荷さん。
赤い鳥居がトンネルのように立ち並んで幻想的な光景だ。

子供の時、夏祭りの時にここへ来るのが
ちょっと怖くて勇気がいった。
あのキツネの像が睨んでいるのが苦手だった。
いまは懐かしい。

さあ、こんなものか・・・と、
用も終えたと家路につく。

神社を出て心の中から声があがった。
今度は神様だ。なぜここへ来たのかと。

私は考えた。

45年前に交通事故に遭ったのは
丁度さっきの念仏堂の前だった。本当なら即死だった。
母も事故をみて死んだと思ったらしかった。

それは事故の瞬間、巽神社の神様のお計らいで、
念仏堂の仏様が私の魂を瞬間に抱えてくださった
ということ。

それが45年経った今、
その光景を見るようにはっきり、
あの時「救い上げてくださった」と自覚できた。

しかし、その感謝とお礼がまだ出来ていなかった。

いま自分がここに生きて存在している・・・
そう思うと、申し訳なさとありがたさで
涙があふれてきた。

そして「神様と仏様、ごめんなさい」
何度も手を合わせて詫びた。

また、ひき逃げで、誰からの保障もないまま、
貧乏な中で両親がどれほど苦労して看病してくれたか。

あろうことか、その両親への感謝も忘れていた。

さっきアエバ病院前を通ったのも
この神仏の計らいであった。

私は、神様、仏様、両親への
なすべき感謝とお礼を
なんと45年間も怠っていたのだ。

これは不義であり、罪であると悔いた。

いまでも時々夢に現れるこのあたりの情景は、
そのことのお気づけだったのか。

それが、稽古があるものと勘違いして
今日大阪へ来たおかげで知ることが出来、
悔悟、得心できたのだ。

まことにありがたい勘違いの巻であった。

同時に大阪の稽古場の竜宮の乙姫様には
感謝してやまない。

乙姫様には、いままでも四国行きをはじめ、
アメリカ行きなど数々の行を決行し、
陰からの守護があった。


また、もう一つ。

その帰りの道中、急にトイレに行きたくて
「ロイヤルホスト」に入った。

コーヒーを頼んで、読みかけていた本
「仏教聖典」のページを開けた。

すると、そこにはこう書いてあった。

驚いた・・・ページをめくったそこには
ここ数日考えていたことの答えがあった。

『真実に道を求めるためには、刃の山にも登り、
火の中でもかき分けてゆかなければならない。

・・・
心さえあれば、目の見るところ、耳の聞くところ、
みなことごとく教えであることを知る』

『さとりを求める者は、心を清らかにして
教えを守り、戒を保たなければならない。

戒を保てば心の統一を得、心の統一を得れば
智慧が明らかとなり、その智慧こそ人をさとりに導く』

『これから起ころうとする悪は、
起こらない先に防ぐ。すでに起こった悪は、断ち切る。

これから起ころうとする善は、起こるようにしむける。
すでに起こった善は、いよいよ大きくなるように育てる』

『仏の心とは大慈悲である。
あらゆる手立てによって、すべての人々を救う大慈の心、
人々とともに悩む大悲の心である』

コーヒーを飲む手が止まった。
涙があふれた。ハンカチで隠した。

しばし後、店を出て車に乗った。

さあ、店を出て驚いた。

車を出して角を曲がると、
そこは大阪成人病センターだったのだ。

昨年亡くなった和良久の友、
梅田真美さんが入院していた病院の隣だった。

何度かこの病院にも見舞った。
夜だったので気がつかなかった。

確かもう一年になるか・・・
手を合わせあらためて冥福を祈った。

人生、何が気付になるかわからない。

すべては神の御心のままであることは確かだ。

無駄と思えば無駄になる。
ついていると喜べば幸運が波のように来る。

思いのままに動く人生ということをつくづく思う。

続く・・