特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座561


苦悩の時期の記録 4


<15年ほど前の大学ノートより・・・>


体をはぐくむと同時に心をはぐくむ。

体をはぐくむ教育の中において心を
正しく表現しうるものがでてくる。


○○氏の指導する○○塾の稽古にかけている
のは体育である。
(ここでいう体育とは学校で言うところの
体育ではない)

頭ばかり使う稽古事ではバランスがとれぬ。

武道の稽古においてこそ
体力向上の鍛錬がなされるべきはずのものであるのに、
汗ひとつかかぬ、頭ばかりの稽古では
どうしようもないではないか。

これではいざと言う時の間に合わないばかりか、
病に対する抵抗力も弱く、怪我もしやすい。

剱の稽古は、確かに次元の高い稽古である。

しかし、何かの下地があり、
かなりの体的訓練を積んだ者で、そして、
しかもその先の高い目標をもっている者・・・
これが稽古に入る条件で剱の稽古に入ると
この理念と技が非常によく理解できる。

剛をなして、柔がわかり、やがて流に至るものだ。

まず「剛」である。
汗搾り出して、固くてもいい、
一心不乱に汗する時期があっていい。

いきなり「力を抜きなさい」と諭す
「流」の稽古に入ったとて、
蛸に酢をかけるようなものである。

物事、段階を踏まして前に進ませてやることが
大事だ。



技を使うのは体である。
体をしっかり鍛え、丈夫にしてからでなくては
技の稽古は絵に描いたもちで終わってしまう。


歳がいってから、あれこれと細かく言うことは
差し控えねばならない。

体が動かないと言うなら、口もおとなしくすべきだ。

武道においても体が動かなくなり、
皆と稽古ができなくなったらお終いである。

「自分のようになれ」と我を張らぬことである。
人には人の道がある。
色は様々である。
人を自分色に染めぬようにしなければならない。

理想をみつめつつ、しっかりと現実を歩まねば
ならない。

たとえ今行っている技が下賤であっても、
理想を高くもっていれば、
やがてそれ相当の技に昇華する。

心の向上はある程度は体の向上によるところが
大きい。体育をしっかりやらねば。

「イキ、イキ」とそれもよいがイキだけでは
体のバランスが崩れる。

イキを打て、イキについていける体づくりが
まず第一である。

固いイキからは固い体ができ、
柔らかいイキからは柔らかい体ができる。

高い次元へいきなりいけるものではない。
労少なくして、棚からぼた餅を待っているような
横着なことでどうする。

まず現実に直面している問題を
やっつけていくことだ。


筋力にたよる技はよくないが、
筋力に負ける技はもっとよくない。


力も技のうちである。
しっかりと力をつけて技を身に着けることが大事。

まず力で相手をねじ伏せるぐらいの
勢いがなくてどうする。

そうして、力ではどうしようもいけぬ・・・
というところまでいってから
イキの技へ至るのある。


人は口だけでは動かぬ。
人は力だけでは動かぬ。
両方をもって動かす。

剱だけではだめ、素手だけではだめ。
両方やる。

霊だけではだめ、体だけではだめ。
両方あってひとつである。

師だけではだめ、弟子だけではだめ。
両方あってひとつ。

火あっての水。
水あっての火である。

軸だけではだめ、円周だけではだめ。
これは同時に存在するものだ。

神は同時にこれを存在させる。
スの印これをあらわす。


開手による「こね技」は、
うどん粉をこねるように、ふんわりと柔らかく。

はじめなく終わりも無い、
とりとめのない動きこそ無限となる。

相手との間、タイミング、そして自己の一瞬の
100万ボルトの出力をこそ養え。
小ざかしい手の動きなど論外。


ものごと、受けて、崩して、そして返す三拍子に。

三拍子を二拍子に、二拍子を一拍子に
そして動きが消える。

水となり、風となり、柳となるとき、
手は開き、構えなく、流れるごとし。

火となり、岩となり、道を切り開くとき、
拳をつくり、身体かためて構えをとるとき、
すなわち剛。

まず第一に吾身を修めるをきちんとなせ。
吾身修めることならずして、
なんぞ国をおさめ天下をおさめることが出来るや。

人の気を動かす。
善き方へ、戦わぬ方へ。

幸せになる法
口の左右の端を、上へ一センチあげるだけ。

剛を経て、柔を知り、流にいたる。

徳を積む。
人の笑顔をひとつでも多く見ること。
人を笑顔にさせること。

鎮魂力の大小が技に影響する。
吾守護神、守護霊を動かす。

不可思議な現象に気持ちを惑わされるな。
労を惜しまず己の手で動かし、己の足で
蹴飛ばし、己の声で叫べ。

現界の主は肉体をもった人間である。
これほど尊いものが他にあろうか。

その身体を力いっぱい使え。
見えぬものにおびえるな。

こちらは見えぬものをもった見えるものだ。
これほど強い組み合わせがあるか?
まいったか。


思い正しからずば、行い正しからず。
行い正しからずば、思い正しからず。

真の稽古のありかたは、教える者と
教わる者の心が一つになったとき成立する。


大勢の者を相手にして立ちあうとき。

人を楯とし、人を垣根とする。
人を武器とし、人に同士打ちさせる。
小技を用いる。大技を凝縮させたもの。
眼は一点にとらわれず、全員同時に観る。


スースーと型の流れに身をまかせていくのがよい。
すべてには、その時所位にあった型がある。

しかして、その基本的思考や行動は、
この地球上のことであるならさして違いは無い。

ある型を徹底して身につけたなら、
少々の違いはあっても
その応用はすべてに通じるものである。

人のもつリズムに大きな違いはない。
まず自分の型をもつことだ。
その型はやがて人類規模で通用するリズムと
共鳴するだろう。


技を決めるこつはこうである。
とにかく最初の第一打目を基点として
制するということだ。

二打目を出させるな。
一打目を的確に制すこと。

いましかない・・・
この瞬間にかける気持ちが人の次元を向上させる。

真剣勝負の感覚である。
一打で制す。二は無い。


震脚とは。
上下をつけ、強く震わせる。
踏み込むように。
着地するすると同時に技を決める。

上下は強さなり。力の基本なり。
重力の作用なり。

左右は美しさなり。広がりなり。
持続力なり。回転力なり。

前後は直進力なり。
後退力なり。間なり。


結局ものごとなるようにしかならない。
それを知るまでにどれほどの年月を
要した事やら。あほらし。

何をなすにも「縁がある無し」にかかわってくる。
縁の無い者に会えず、縁のある者と切れず。

人との出会い、仕事、住居、趣味・・・
すべて縁のかかわりがある。

自分→守護霊→守護神→産土神→国津神
→天津神→八百万神→大神

このつながりを思うと何と心強いものだあな。


何かしているようで、実はさせられている。
そんなことも随分あとで知る。

ほんに今はわからない。何もかも皆あとで知る。
そういうことなんだ。
ただ何事も道のために、道のために・・・
と思って生きていく。

そんな気持ちでいられる間は、大丈夫。
その気持ちがある以上、
おぬしに本当の失敗は訪れまい。


神の御心であるかないか?

とにかくまず祈ること、そして信じて突き進むこと。
良き結果も、悪しき結果もすべて神の答えである。

真剣に祈って、願ってやったことなら、
それは悪い結果であっても、
やがて必ず信じた目的に到達する。

「おまえはここにいてはだめなんだ」
だから、神は私をそこにおれないようにする。

「おまえはそんなことやっていてはだめなんだ」
だから、神は私に失敗をさせる。



神は言う。

いまはつらいだろうが、これはどうしても
おまえが経験しておかねばならないことである。

おまえが道を求め歩んでいこうと決めた時から
私はおまえを導きはじめた。

おまえの夢が私を動かしたのだ。

途中で投げ出さないこと。
一度もった夢は最後まで持ち続けること。

約束である。

その達成せんとする気迫がある限り私は
おまえを篤く守護する。

その気迫を失ったとき私はおまえを離れる。

常に道のために生きなさい。
道のために食べ、道のために寝て、
道のために死になさい。

道のために死ぬ者は死なないのだ。

常住坐臥、道のためと念じて生きなさい。

必ず至るべし。
いましが求むる道の極みを。

これ神の御心である。


続く・・・